愛と罪との関係 ~人気のある東野篤子と人気のないショーペンハウアー~
自分は坂口安吾を読みだしたのは遅かった。太宰治を坂口安吾の上位互換と勝手に思っていたので、安吾は読まなくていいと考えていた。実際読むと太宰とはまた違って面白い。自分は坂口安吾のエッセイが好きだ。
それで、坂口安吾のエッセイをぱらぱら見ていたら、阿部定について書いたものがあった。阿部定というのは「阿部定事件」というのがあって、衝撃的な事件なので有名だ。これは阿部定という女性が、恋人の男と性交中に相手を殺してしまい(そういうプレイの最中だったらしい)、男の性器を切り取って逃げたという事件だ。
この話を聞くと非常に衝撃的なわけだが、坂口安吾は阿部定は「純情一途」だったと書いている。自分は阿部定事件をそれほど知らないが、エッセイを読んでいて(そうだろうな)と思った。
今の時代に坂口安吾が生きていて、阿部定事件が今起きた事件で、安吾がこういう事を書いたなら、きっと炎上していただろうなと思う。世間はそういう異常な外貌を持った事件を必ず、異常な人間が執り行ったと考えたがるからだ。
最近、似たような事件が起きた。こちらの方が凶悪ではあるが。
看護師の男が妻と娘を殺した後、不倫相手に「大好き大好き」とメッセージを送っていたらしい。妻と娘を殺したのは、二人が不倫相手との関係の障害になったからだそうだ。
私はこの看護師は阿部定と似ており、「純情一途」、あるいは「純粋」な人間だなと思う。
おそらく、私がこういう風に書くと、「お前は犯人を擁護しているのか?」とコメントが必ず出てくるだろう。
しかし考えてもみてほしいのだが、「純粋」である事と「残酷な殺人」というのが矛盾していると何故人は考えたがるのだろうか? おそらく、私がこの犯人を「純粋な恋愛感情の故」と書くと怒る人がいるだろうが、そうした人達は「純粋な恋愛感情」は良いものだと頭の中で勝手に考えているが故に、私の意見を「擁護」とみなす。
本当はそうではない。私は、もう今の年齢になってはっきり言えるが、世間というのは虚偽ばかりである。嘘ばかりだ。しかしそれが世間にとって、大衆にとって必要な嘘だというのも確かだ。
だが本来文士とか作家とか哲学者とかいった類の愚か者たちは世間の人間が隠す嘘を暴き、真実を明らかにするのが仕事だった。にも関わらず、今のインテリは世間に阿り、大衆に媚びて、真実を覆い隠す一助の役割を担っている。しかしそれらは全て嘘なのだ。
夏目漱石などはそういう事ははっきりとわかっており、「こころ」では恋愛感情がそのまま罪悪になる人間の姿を描いた。
虚心坦懐に考えてほしいが、間違っているのは「恋愛はいいものだ」という現代人の通念の方なのである。看護師が妻と娘を殺して不倫相手に「大好き」とメッセージを送るのは、この男が自分の恋愛感情に徹底して忠実だった事を意味する。
これは異常な恋愛ではなく、純粋な恋愛であり、その恋愛の為には何をも犠牲にして構わないという精神である。
「恋愛の為に何をも犠牲にしても構わない」などと言えば、人は広告のキャッチコピーのような文章に思うかもしれないが、この「犠牲」の項に「妻と娘を殺害」と入れてみよう。そうなるとこの文章は慄然たるものになる。
「恋愛は素晴らしい、良いものだ」という世間の虚偽が先行して存在する。自分達の情念については賛美し、肯定したいという欲望があるからこそ、看護師のしたような事は「異常な人間の異常な行動」と決めつけたがるのである。
「看護師のした事と自分達のしている恋愛は別」と考えたがるから、この人間の情念もまた異常であり、そもそも「正常な恋愛」ではないとされる。
看護師のしている事を冷静に見つめてみれば、これは「究極の恋愛」と呼んでもいいのであり、恋愛の為なら他人を殺しても平気、というほどにこの人物は自身の恋愛感情に徹底して忠実だった。
普通の我々はそこまで恋愛感情に忠実ではない。世間的な利害とか先の事を考えたりして恋愛感情は薄められる。薄められた恋愛感情を我々は生きており、これを濃くしていけば、この看護師の感情に近づいてくる。
例えばカップルが道を塞いでイチャついている時、彼らは他人などどうでもいいと思えるほど自分達の感情に夢中だが、この感覚を強くしていけば、邪魔な人間を殺しても自分達の感情を大切にしたい、という看護師の情念に近づいてくる。
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ここまで書いても、私が阿部定や殺人を犯した看護師を肯定していると思われるかもしれない。もしそう思われるなら、それはその人が「純粋な恋愛は良いものだ」と心のどこかで考えているからだ。
結論は、漱石が描いたように「恋愛感情は恐ろしいものになりうる」という事だ。純粋な恋愛感情が純粋故に醜悪な殺人に至る事はありうる。看護師の殺人とか、阿部定が性器を切り取ったのはその故だろう。
ここでは恋愛と悪、罪とが矛盾していない。これが真実だと思う。そしてこんな真実をショーペンハウアーのような哲学者は縦横無尽に描いている。
しかしこういう真実を人が嫌うというのを私は、生まれてこの方、実に長い時間をかけて叩き込まれてきた。人々は嘘が好きなのだ。嘘とは、自分達は正常で、犯罪者とか敵方は異常であるという思考方法である。
制度としての結婚とか、恋愛とか、仲睦まじいカップルとか、幸福とか、そうしたものは世間の人間が必要とする嘘である。その嘘を守る為に、その嘘を撹乱する事実は「異常」のレッテルを貼られて外部へと送り出される。
福田恆存はシェイクスピアの劇を「強すぎる情念が罰せられる劇」という風に規定していた。シェイクスピアの立場から看護師を見てみれば全てが明快すぎるほど明らかだ。
シェイクスピアはこの看護師を「異常な人間」とは決して見たりしないだろう。シェイクスピアはこの人物を「自らの情念に忠実過ぎた為に、他者を破壊し、その反動として滅んだ人間」と見るだろう。それは人間の「限界」であり、神はこうした人間を罰する、と見ただろう。
この時、罰せられるのは犯罪者という異常者だけではない。そうではなく、それは私達自身の可能性なのだ。犯罪者とは私達の中の可能性の延長でしかない。だから、本当はシェイクスピアの劇で罰せられるのは他人であり、犯罪者であるが、同時にそれは私達である。また、そういう風に考えるべきなのだ。
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駆け足で書いてきたが、私の書いた事は世に何の影響も及ばさない事は私もよくわかっている。
ただ、私は東野篤子のような大衆に媚びて耳障りの良い嘘を書く人間よりも、誰からも嫌われる真実を描くショーペンハウアーのような人間の著書が歴史には残ると知っている、というだけの事だ。
繰り返し言うと、純粋な恋愛と、他者を破壊する悪行とは全く矛盾していない。これを矛盾していると考えるから、無理やり異常と正常の線引をしないといけなくなるのだ。例えば、阿部定や看護師の地点から普通の人々を見ると、こんな風にも言えるかもしれない。
「あなた達は私達を否定していますね。確かに私達はひどい事をしました。人を傷つけ、殺しました。だけど、自分の中の感情に徹底して忠実に生きる事は本当は誰しもが望んでいる事ではないでしょうか?
本当は誰しもが自分の感情に従って徹底的に生きたいのに、世間体を慮ってそれができない。いつもこそこそと小さな事だけ。確かに私達は悪を成して、その報いを受けましたが、それでも私達は自分達の感情に忠実に生きました。これは誰にもできる事ではないですし、あなた方も心の底では私達を羨ましがっているのではないですか?
私達は自分の中にある感情に忠実に生きました。私達はここまでやりきった事に満足ですし、普通の人よりも遥かに徹底して生きた、とは言えるはずです。」
…もちろん、この意見は間違っている。そんな風にして、主体の中の情念を高級なものとみなして、肯定するのは間違いだ(仏教はこの点を喝破している)。
だが、私が捏造したこの意見は実際には、大衆の虚偽と対立的にできあがった、露悪的な間違いなのだ。大衆の偽善的な嘘と、犯罪者の強がりとは表と裏で世間的な通念のレベルを形成している。そのどちらにも真実はない。真実はその両者が共に囚われている妄執を喝破する事から現れる。
しかし今のインテリは大衆に媚びる事によってかろうじてメディアの上に生き残っているので、誰も真実を言おうとしない。もし真実を言ってしまえば、無視されるか炎上するかどちらかだろう。
人々は真実など取りはしない。だがそれでも真実は襲いかかってくる。人気のある東野篤子と人気のない(なかった)ショーペンハウアーと、どちらが歴史に残るだろうか? …それは私にはあまりにも明白であるように思われる。
注:ショーペンハウアーが人気がないというのは主にショーペンハウアーが主著を出版してから数十年無視され続けた事を指している。まあ、私のまわりでショーペンハウアーを読んだという人もいないし、ネットで言及している人も見かけないのでやはり不人気ではあるなと見ている。