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何故、文学作品の主人公の多くが異常者や犯罪者なのか 〈聖者と犯罪者〉
タイトルにした問題というのは、私の中ではずっと疑問だった。それが、一つ前のエッセイ「愛と罪との関係」を書いた事で、はっきりとわかった。
正直言うと、私の中では小さなコペルニクス的転回が起こったような感じで(ああ、そうか。それでか)と腑に落ちたわけだが、腑に落ちるという感覚はなかなかに人に伝えにくいに違いない。
タイトルに書いたような問題というのは私の中ではずっと疑問だった。何故、偉大な文学作品の主人公は大抵は異常者か犯罪者なのか。これはずっと考えていた事だ。
ちなみに私がイメージしている文学作品の中の異常者・犯罪者というと、「罪と罰」のラスコーリニコフ、「オイディプス王」のオイディプス、シェイクスピアの悲劇の主人公、「嵐が丘」のヒースクリフ、夏目漱石の「こころ」の先生だったりする。モームの「月と六ペンス」の主人公ストリックランドのような、狂気すれすれの犯罪者も私は「異常者・犯罪者」の中に組み入れたいと思う。
さて、今言ったように、偉大な文学作品の主人公には異常な人間、狂気に取り憑かれた人間、あるいは犯罪者というのが非常に多い。
それとは反対にエンタメ作品の主人公は、善人であり、正義の人である。これはいちいち例をあげるまでもないだろう。
我々が望んでいるのは正義であり、善である。にも関わらず、我々が厭う異常者や犯罪者を主人公にした諸作品の方が歴史に残っているのは何故だろうか? 逆に、痛快無比な、例えば『水戸黄門』のような代表的なエンタメ作品が歴史に残らないのは何故だろうか?
(エンタメ作品が歴史に残るという人もいるだろうが、残るとすればそれは歴史的価値が尊ばれて残るというものだろう。現代はエンタメ全盛なので、宮崎駿は後世に残ると本気で主張する人もいるが、歴史に残った優れた作品を鑑賞していくと、ああした作品が残るのは難しいとわかるはずだ)
この事は以前から謎だった。私は、「オイディプス王」から「罪と罰」まで一本の線を引く事ができると思う。時間も空間も遥かに離れており、生まれた環境も土壌も、持っている教養も全てが違う二人が書いた作品が深いレベルにおいては呼応している。こうした事はどうして可能なのか。
ちなみに言うなら、エンタメ作品もまた人類にとって大切なものである。ただ、それは個別の作品が歴史に残る、というような形で受け継がれるのではない。それは繰り返しその時代時代において再生産されるという形で継承される。エンタメ作品は絶えずその時代で作られ、破壊され、作られ、を繰り返す。現象それ自体は連続するが、個別の作品は歴史的価値を認められた少数の作品以外は残らない。
話を戻すと「オイディプス王」と「罪と罰」が同一なのは何故なのか。あるいは、「オイディプス王」と「カラマーゾフの兄弟」も私は連続していると思う。というのは、それは主人公=犯罪者が、自らの罪に気づいていく物語だからだ。
(「カラマーゾフの兄弟」の主人公はイワンだと私はみなしている。イワンは実行者のスメルジャコフというキャラクターと分裂し、その分裂・対立を通じて自分の罪を知っていく)
人が罪を犯し、その罪に気づくという物語は普遍的なものだ。この構造がどうして有効なのか。「オイディプス王」の作者、ソフォクレスの立場に立ってみると、人間というのは自分の意志とか能力とかにそもそも限界があり、神が定めた運命を人が免れる事はできない。神が定めた運命に達して、神が定めた自らの限界に気づく、というのが物語の骨子という事になるだろう。
ドストエフスキーの方はそうした古代的観点ではなく、近代~現代の人なので、もっと個人の自由意志の問題が強くなっている。しかしドストエフスキーはその構造においては古代的なものを引き継いでいる。意志の人、理性の人であるイワンは、スメルジャコフとの分裂・対立を通じて自らの罪を知っていくわけだが、そうした場面で、徹底した理性の外側にある無意識や他者の存在をドストエフスキーは入念に描いていく。
現代の人間は、「罪と罰」を読み、その主人公であるラスコーリニコフに対して「こいつは自分を神だと勘違いしているがただの人間でしかない。彼はただの殺人者だ」と言い切る事は可能だろう。それはその通りだろう。
しかし、そう言っている現代の人間は、(自分はラスコーリニコフと一緒だ)と少しでも思うだろうか? 私が常々疑問を感じているのはこの点だ。人はすぐにメタな立場に立って、あらゆるものを裁断してみる。
「ラスコーリニコフ、あいつはただの犯罪者だよ」
それは中庸を心得た正しい意見なのかもしれない。しかし、そうした意見しか持ち得ないという事が、その人間をラスコーリニコフに、いやむしろ、「ラスコーリニコフ以下の人間」に近づけていく。
というのは、この人物は自我の正しさを絶対的に正しいと信じ切っており、自らの過ちに決して到達できないからだ。ラスコーリニコフはたしかに罪を犯したが、極限まで歩いていった事によって、自らの限界にたどり着いた。では、それを見ている人間は果たして自らの限界に気づいているだろうか?
私が現代の聡い作家の書く文学作品に興味を持てないのは、今の作家の多くは自分というものに達しないからだ、と私は言いたい。というのは、上記の言い方であればこうした作家は「自分もまたラスコーリニコフと変わらない」という戦慄が欠けているにも関わらず、頭脳だけで按配し、手だけを動かして「犯罪・罪・悪」の問題を描けると考えているからだ。
こうしたつまらない人間達が書く優等生的結論を、また自らの存在の深淵に触れた事がない人間が読んで深くうんうんとうなずき、「そのとおりだ、間違いない」と言う。ここでは何も学ばれていない。しかし「学ぶ」とはどういう事だろうか? 私が問いたいのはその事だ。
※
話が逸れてしまった。結論から先に言うと、次のようになる。
「偉大な文学作品において異常者や犯罪者が主人公である事が多い理由は、そもそもそうした人間の方がかえって人間の本質を表しているからだ。それに比べると、我々正常人は異常者や犯罪者を薄めた存在でしかない。そういう言い方をすれば「より人間らしい」のは、我々が嫌っている異常者や犯罪者の方だ」
私は上記のような事を考えた。これは、人間の本質を欲望=意志からできているという考え方から出立している。我々が通例、犯罪者に至る事はないのは、犯罪者が遂行するような「自己の欲望の絶対的肯定」を行わないからだ。
それを理性によって、常識によって、慣習によって、利害によって薄めて我々は生きている。しかし我々の生きる事の目的が「欲望の成就」であるとするなら、そうした行為はどうしても他者の欲望の侵害、要するに「犯罪」にまでたどり着かざるを得ないのである。
現代の人間はこのあたりの考えがあやふやである。またあやふやである事によって、彼らは精神的健康を保つ。
例えば現代人が好きな「夢を叶える」といった言葉は「欲望を成就する」というのを言い換えただけに過ぎない。しかし人はそう取らないし、そうは考えない。
それでは「夢を叶える」為に、他者を侵害しないといけない立場になったらどうするだろうか? ライバルを蹴落とし、ライバルが涙のうちに辛い人生を送る事になったとしてもそれは良いのだろうか? そういう事を人は考えようとはしない。
欲望の成就というのは、推し進めていくと、他者の欲望に対する侵害へと続いていく。ブッダが見て取ったように欲望は無限であり、どこまでも進んでいく為に、それを肯定しているだけで自然と他者の欲望との競合関係に入っていく。そうしていつしか他者の欲望を侵害し、他者の欲望を否定する。これが「犯罪」だ。
人は、例えばストーカー行為と、普通の正常なる恋愛とを区別するだろう。仲睦まじいカップルと、強姦やストーカーといった「異常な」恋愛を分割するだろう。私も最初はそう考えようとした。人生の入り口において。そしてそれが人々が共同でついている嘘だとだんだんにわかってきた。
しかし人々にとって真実よりも虚偽が必要だという事実、それ自体にはそれなりの真実性がある。人々は幻想の内に生き、幻想の内に眠らなければならないからである。彼らは自分達のゆりかごを壊されて、真実という汚らしいものを見せられるのを嫌う。
「オイディプス王」という作品が偉大なのは主人公が、そう言いたければ「真理に対してマゾ」だからであり、オイディプスは自らに罪があるのをうすうす承知しながらも、自分の罪を暴くのをやめない。「オイディプス王」という作品が偉大なのは、真実がどれほど過酷だとしても、またその人自身を食い破り破滅に導くものだとしても、それでもやはり真実を選ぶという人間の勇気がはっきりと表現されている為である。
これとは反対に、我々が好きなタレントやアイドルといったものは虚偽に満ちており、汚らしい真実を背後に隠して、表面だけの外貌を我々に見せる事で成り立っている。よく「昭和のスターは違った」などと言う人間がいるが、私からすれば昭和も平成も令和も変わらない。同じだ。(戦前の昭和は違うだろうが) それらは全て大衆に見せるキレイな嘘という点で一致している。ただ大衆の好みと、嘘の形式が若干変わっただけに過ぎない。
※
それでは真実というのは何かと言えば、それは我々に罪があるという事だ。もう少し正確に言えば罪の源泉である欲望を持っているという事だ。
だから私にとっては人々が嫌う異常者や犯罪者の方がより人間の本質を表している、という事になる。それは我々の可能性であり、我々の中にあるものの暴露に他ならない。
というのは我々が恋愛をすれば、それが強い感情である限り、ライバルを蹴落としてでも相手を手に入れたいと思うからであり、普通の人がそうしないのは、単に感情が弱いか、利害や理性によって感情が弱められているかに過ぎない。
感情が強いという事、感情のままに動いていくという事は、我々が普段抑えているものをより本質的に、本格的に具現化していくという事に他ならない。我々の中の本質を表しているのは犯罪者である。それは我々の欲望の延長であり、もう少し言えば、我々の欲望が辿らなければならない運命なのだ。
それとは反対の存在として聖者がある。聖者は犯罪者とは違い、自らの欲望を殺そうとする。聖者が目指すのは、自らの殺害である。彼はともすれば他者を侵害しようとする自己の欲望を弱め、殺そうとする。聖者が食物を節制したり、自らに苦行を課すのは、自らの欲望を弱わめ、自己を殺そうとするからだ。
聖者は理性の本質であり、犯罪者は欲望の本質である。我々普通人はこの間で浮かんでいる。
聖者は他者への欲望の侵害を回避しようとする。動物や生物を殺す事すら嫌い、自らを殺す。これに反して犯罪者は自らの欲望の為に世界を犠牲にしようとする。ドストエフスキーが「地下室の手記」で書いた
「一杯の紅茶をのむためなら、世界が滅びてもかまわない」
は、その端的な表現である。人間というのはその両極に聖者と犯罪者を置いている。ドストエフスキーのような極限を目指す作家はこの両極を作品に配置する。彼はそれによって「人間とは何か」を明らかにする。
人間とは聖者と犯罪者の間にある「幅」に他ならない。「罪と罰」においてはソーニャとラスコーリニコフが、「カラマーゾフの兄弟」においてはゾシマやアリョーシャとイワン・スメルジャコフが対になっている。
※
それでは、何故主人公が犯罪者や異常者である必要があるのか? 簡単に言えば、それが人間の成長過程、その運命だからだ。
人は自らの欲望を持ち、動物として生きる。理性はまだ弱い。この生物が自らの中の欲望を肯定し、肯定し続け、他者の欲望を侵害する。そうなると、今度は他者からの反撃を受けて撃滅する。
仮に他者の反撃を受けない場合でも「こころ」の先生のように、良心の痛みとしてそれは刻印される。
ここで少しばかり「こころ」の先生の良心について考えて見るなら、先生が親友を蹴落として、親友の好きだった女を得た事、これは他者の欲望に対する否定が、先生の中に残った、と見る事ができる。
この事は、否定する先生と否定された親友とが、実は同一の人間、同一の存在であったという真実から発生している。否定するものと否定されたものが本質的には同一であると、心の深い部分では理解しているからこそ、先生は他者を蹴落としたその手の感触を自らの精神に対する攻撃のように感じてしまう。これによって先生は死を選ぶ。先生が死を選んだのは、先に彼が他者を死の淵に(結果的に)突き落としたからだ。
もちろん、世の中には他人を侵害しても何も感じない人間というのがいる。これらの人は、心弱い大衆にとってはヒーローに見える事もしばしばで、こうした人間が優れたリーダーとして一時的に振る舞う事もある。
何故そうなるかと言うと、大衆は本当は他人を破壊してでも自らの欲望を肯定したいのに、犯罪者にはなりたくないし、そうする事で他人から反撃を喰らいたくないので、普段はなりを潜めており、しかしながら密かに彼らはその願望を具現化してくれる誰かを探しているからだ。
サイコパス気質の人間がリーダーや英雄になるのはその為だろう。人々の欲望を具現化する存在として、そうした人間がリーダーとして振る舞う。しかしこれらのリーダーも最後には他者の反撃を受けて死ぬ。
こうした、他人の感情や心を全く解しないリーダーは「こころ」の先生のように良心の痛みを持つ事もないので、他者から物理的に反撃されて、物理的に肉体的な痛みを伴って死んでいく。他者の心に無関心である人間は、自らの心を、肉体の方から破壊される。それはこうした人々の必然的運命である。
※
何故、文豪の作品の多くの主人公が異常者や犯罪者なのか? この問いに戻るなら、その答えは我々の欲望の本質がそもそも異常者や犯罪者だから、という事になる。
我々はそれを普段は徹底して突き詰めない為に自分の罪を感じずに済む。しかし、こうした普通の人々は、自分個人では犯罪者になれない代わりに、集団で犯罪を目論もうとする事もしばしばだ。
それは、個人の欲望の発露が抑圧され、集団的現象になったものだ。集団現象でも犯罪と同じ事が起こる。一つの集団の欲望が叶えられる為に別の集団が害される。個人として自己の欲望の徹底遂行を目論まない人間は、こうした集団的な邁進に自らを課したりする。
これに反して、聖者は、犯罪者とは反対の位置にいる。犯罪者とは幼稚な精神であり、聖者は成熟した精神だ、と言う事ができる。
しかしながら聖者は既に結論に到達している為に、動く事ができない。悟りきった聖者が主人公の波乱万丈の物語というのを我々は想像できない。聖者はどんな事が起こっても心揺らがないし、自らの欲望を制御して、場合によっては他者の為に平気で死ぬので、ドラマが起こりようがない。
シェイクスピアの作品の物語を作っているのは、人間の欲望が辿らなければならない運命なのだと私は思う。それは我々の姿なのだ。他の誰でもない。まただからこそ、ああした作品は「傑作」なのだ。自分達とは関係のないどこぞの他人の話をいかに巧みに創作されたとしても、そんなものどうでもいいではないか。それが「我々」であるからこそ、ああした作品は我々にとって「傑作」なのだ。
例えば「オセロー」で、主人公のオセローが妻のデズデモーナを熱愛するのは何の罪もない行為かもしれない。しかし福田恆存のガイドを使えば、オセローが妻を「愛しすぎている」というのが既に問題となる。この強い愛、人間的な愛こそがオセローを破滅に導く。
「オセロー」が偉大な悲劇なのは、オセローが意志して悪を成したからではない。そうではなく彼が人間として当たり前に持つであろう強い欲望を持った為に、彼は破滅に至る。それは人間全般の避けられない運命であって、人々が考えたがるような(私が考えたがるような)、主人公の選択次第で悪い道は避けられる、というようなものではない。
犯罪者とは以上のように、自己の欲望を徹底的に遂行した存在の象徴だが、こうした存在は、他者からの反撃を受けて滅んでいく。彼は自分を「絶対」だと考えたのだが、実のところ、彼以外の人達も自らを「絶対」だと考えたがる人間だったので、そこではありきたりの人間関係の結論によって、絶対者は処罰されなければならない。
仮に神がいたとしても、神自身は他の神との関係においては極めて凡庸にしか振る舞えないだろう。神がいかに偉大だろうと神が二人いれば、二人いるという事実が互いの存在を相対化する。要するに神は一人でなければならない。二人いればもう神は凡庸な存在となってしまう。そこでは神の絶対性が問題になるのではなく、絶対同士が関係する相対性が問題となるから。
同じように、人間もまた他の人間との間においてはあくまでも相対的な存在、凡庸な一人間でしかない。
聖者というのは、それに反して自らを理性で殺してしまっている存在である。言ってみるならば、犯罪者が他者からの反撃に出会って物理的に死ぬ事と、その死を先に思考として、理念として先取りして、自らを殺す事を使命としている聖者は、その根底において繋がっている。
それ故に、物語の最終部において現れるのは、犯罪者や異常者の自己の高揚の果ての死だが、それと同時に現れるのは悟りを開いた聖者である。この両者は本質的に同じ存在であり、犯罪者や異常者は、自己の欲望を拡大させ過ぎた為に物理的に死んだ存在であり、聖者は自らの中に死を内包して寂然と、もはや何も求めない。
おそらく偉大な物語というのは、このような過程として現れてくる。悟りきった聖者は主人公とはなり得ない。とはいえ、反省する事もなく死ぬ事もない犯罪者、異常者、自己の欲望を肯定し続ける者は物語の最初を形作るが、それ以上先に進む事はできない。
物語の本質を形作るのは欲望の悲劇であり、それは犯罪者から聖者に至る道だ。つまり出生から始まり、生の肯定、その否定としての死を段階として辿っていくものだ。その過程において他者が現れる。
※
ここまで書いてきた事をまとめると次のようになる。
まず、偉大な文学作品は基本的に欲望の悲劇を描く。古代的にはそれは人間の限界を表すものだった。神が先に想定され、神とは違う人間には限界がある。それは自己を神と思い違いし、自己の中の欲望を無限に推し進めていった結果、破滅するという物語だ。
近代においては欲望は自意識のような形に変形してくる。これをもっとも深く探求したのはドストエフスキーで、ドストエフスキーにおける自意識とは欲望の現代版に他ならない。この自意識の中で主体は自己を神のように祭り上げるが、結局は他者との関係の中で滅んでいかなければならない。というのは彼は神ではなく、他者との間においては相対的で、凡庸な存在でしかないからだ。
犯罪者や異常者といった存在は、我々の欲望の本質を表したものだ。我々は犯罪者や異常者より優れているというわけではなく、それらの存在を薄めているだけだ。
また、そうだからこそ、我々大衆は、時にそうした凡庸な自分達に耐えられなくなり、集団で固まって自分達の欲望を徹底的に遂行しようとする。この場合に戦争における侵略であるとか、集団的な攻撃行動が現れる。
この集団は、異常者や犯罪者の個人と同じ運命をたどるものの、この集団の内部の個人は自分を異常だとか犯罪者だとかは考えてもみない。彼らは自分達は正常だと考えたまま、異常だと彼らが罵っている人々と同じ事をやる。
これに反して聖者はそれらの存在を理解した人である。彼は例えば一匹のうさぎを生かすために自らを殺す。何故そんな事をするのか。何故そんな事が可能なのか。…答えはうさぎの中に息づいている欲望(意志)と、自らを生かそうとする意志が同じものであると認識し、うさぎの方では自己の欲望を抑制する理性は持たないが、人間である彼は自ら欲望を殺す事ができるからだ。
彼はうさぎの為に死ぬ事もあるだろう。それは彼の中の意志が他を犠牲にしてなおも生きんとするのを否定し、うさぎの生きんとする意志を肯定する為だ。
もちろん、これは問題の解決ではない。うさぎは生かされたとしても、自らの意志をそのままに存続させるだけだろう。聖者の中にある意志は、うさぎの形で生き続ける。生きようとする意志を、意志そのものが完全に殺す事はできない。
また、もしそうしたとしたら、今度は理性による意志の否定(例えば食物の節制)そのものが不可能になるので全ては無に帰してしまう。犯罪者が自己の行為における矛盾にさらされているように、聖者もまた自己の行為の矛盾に晒されている。
しかし人間の旅とは矛盾から矛盾への移行であろう。文学作品が描くのは物語であり、それは出生から生の肯定、死へと続いていく。犯罪者の死滅と、聖者の死の内包は本質的に同じであり、こうした現象が物語のラストに当たる。これは他人事ではなく、自己の欲望を肯定して生きる我々自身のドラマが目の前に鮮やかに現象されているという事なのだ。私はそのように考える。
追記:「オイディプス王」の作者ソフォクレスは年老いて、「あっちの方はどうだい?」とからかわれたそうだ。「あっち」とはセックスの事で、「年老いてセックスはできているのか?」とふざけられたらしい。
ソフォクレスはそれに対して「その話はやめてくれ。私はやっとそういうものから逃れられたのだから」と答えたそうだ。私はこのやり取りに文学の本質というものが鮮やかに表現されていると思う。
注:おそらく慧眼の読者からは「いや、異常者や犯罪者が主人公ではない優れた文学作品もある!」という反論があるだろう。私はそれに対して本質論を述べているので、個々の例外については重視しないという立場を取る。
例えば「アンナ・カレーニナ」は間違いなく名作だが、主人公のアンナは罪を犯す人間である。アンナとヴロンスキーのカップルは都市と罪とを象徴しており、反対にリョーヴィンとキチイは田舎と善を象徴している。トルストイ自身に近いと考えられているのはリョーヴィンだ。
仮に、リョーヴィンやキチイを主人公にして、アンナとヴロンスキーを取り除いた作品があるとしたら、そういう作品は果たして我々が知っているような、「アンナ・カレーニナ」のような名作になるだろうか? 私が問題にしている事はそういうものだ。
今の人向けにもっとわかりやすく言えば、シャア・アズナブルを除いて、アムロとその仲間だけが目立つ「機動戦士ガンダム」は果たして元の作品ほどに面白いだろうか?というような事になる。