おじさんである。 かの磯野波平氏の年齢を超えているので、下手するとおじいさんである。 最初の東京オリンピックの時は、米沢で母に抱かれて聖火リレーを見たらしい。 名前は本名だ。 ただ漢字で書いた自分の氏名が落ち着かない。 おそろしくスカスカの最初の2文字に、 突然ぐちゃぐちゃした3文字目、 ここでやめておけばバランスも取れたものを、最後の「彦」はいったいどうなのだ。 おかげて人生で上手に名前の書けたことが一度もない。 ここではせめてカタカナにしてみた。 肩書きは造形作家を名
共同アトリエには、時々わたしのnoteにも登場する、自腹で地域猫に餌をやっている作家さんがいる。 先日の朝、彼女がこちらの顔を見るなり「タグチさん、お願いがあるのです」といってきた。 このお嬢さんは決して悪い人ではないが、相当ちゃっかりしている。 そして押しが強い。 そもそも地域猫への餌やりも、管理者側の「そういう事されると、近所から苦情が来るかもむにゃむにゃ・・」というやんわりしたお達しに、「そうですねぇ誰がやっているんですかねぇ」みたいに見え見えのシラを切って既成事実
noteも色々マイナーチェンジをするわけだけど、突然記事の最後に出てきた「チップで応援する」って文句、なんか下品じゃないですかね、チップって言い方。 あとハートに¥のマークってのも、ちょっとねぇ。 noteは良いプラットフォームなのだけれど、あまり収益上げるとかには向かないし、そっちを強化しようとするといろいろダメになると思ふ。
ここ二日ばかりずいぶん寒いが、明日の関東地方はいよいよ真冬並みの寒さだそうな。 あな恐ろしや、とうとう今シーズン初めてのエアコンを起動してしまった。 もう「日本には四季がある! 」みたいな無邪気な自慢すら許さない気候変動ぶり、それにしてもエアコンが効かないぞ。
少々気持ちが落ち込んでいる。 原因を探ると、急に寒くなったせいか、気がかりな世相のせいか、はたまた所謂バイオリズム(古いねぇ)のなす技か、思い当たる節はさまざまある。 しかし何といってもあれだな、再発した肩痛、こいつが一番悪い。
わざわざリンクは貼らないが、昨日自分が書いた、なんというか書きっぱなし、言いっぱなしみたいな日記はやはりよろしくないように思う。 昨日は昨日で、どうしてもそんなことを言ってしまいたい気分だったわけで、間違ったことを書いたとも思わないが、でもまぁ自分の発信としては、ガサツであったなぁ。 noteを初めて一年半、いつの間にかフォローする方も、していただいた方も増えた。 毎日のように文章を読ませてもらう方も多い、もちろん読んでくださる方も多かろう。 普段そこまで考えないのだが、
うーんとね、ネットに真実なんてないよ。 学校で教えない事実? まず学校で教わることをおさえようよ。 マスコミを信じられないのは仕方ないとして、なんで誰が書いたかわからないXだのYouTubeだのは信じられるの? 自分の頭で考えろって、それ誰かの受け売りでしょ? このまどろっこしい世の中の仕組みは、必要があって出来上がったんだよ、どうしてそんな簡単にひっくり返えそうと思うの? 世界は退屈で忖度と保身と不作為に溢れているけれど、それは陰謀論やレイシズムやポピュリストの台
国立博物館まで「はにわ」展を見に行く。 太古、日本人はあの装飾過多な縄文土器や土偶を、延々と一万年も作り続けていた。 しれっと一万年と書いたのだが、以後の時代を全て足しても3000年なので、これは日本人の歴史のゆうに2/3を超える。 恐ろしく長いのである。 その後、突然シンプルモダンな弥生式に方向転換して、今度は打って変わって禁欲的な壺などを作る。 これが千年弱である。 縄文の足元にも及ばないが、それでも十分に長い。 さらに古墳時代に至って、ここから再度シフトチェンジす
現住所には中学生の時から50年近く住んでいる。 ここはいわゆる実家である。 建て売りだったが、当地にくる前はずっと公団団地に住んでいたから、まぁ、手垢のついた言い方をすれば、両親が苦労して手に入れた夢のマイホームというわけだ。 独身の一時期や、結婚してからの数年、実家から離れて暮らしたこともあったのだが、なんだかんだでここに戻ってきた。 建物は後に私が新しくして、もう建て替えてからの方が長くなっている。 元々は、多少のタイムラグはありつつも、郊外の広大な田んぼだったとこ
最新のお仕事依頼が2件、いずれもそこそこ景気が良く、かつ美術系とのお仕事に慣れていない業種から。 で、先方の提示した金額が思いの外お高かったので、ラッキーと思いながらも、いやいや普段が安く買い叩かれているだけで、世間じゃこのくらいが普通なのではないかという疑問もわく。 まぁ適正価格など本人もよくわからないし、実態のはっきりしない謎の業界ではある。
3時までで制作を切り上げて、帰宅途中でひとつ案件を片付けて、床屋に寄って髪を切り、スーパーで買い物をして帰宅する。 特売の刺身を買って来たので、酢飯を作って海鮮丼にする、すし酢が若干賞味期限を過ぎていたが、気にしない気にしない。 海鮮丼ができたのに、連れ合いの洗濯が終わらないので、冷凍枝豆を解凍し、ぬか漬けを切ったが、まだ終わらないから、さらに卵焼きを追加する、そんな1日だった。
さて昨日の話だ。 要約すると、体育やスポーツの才能というのは体力とか持久力ではなくて、実は「自分がイメージした動きを、自分の体でそのまま再現できる能力」なのではあるまいか、ということであった。 そんなこと書いてなかったかもしれないが、まぁそういうことが言いたかったのである。 こういう能力に何か名前がついているのかどうかはわからない。 世の中には賢い人がたくさんいるので、きっと誰かが研究しているとは思うのだが、しかし意外と見逃されがちな視点なのではないだろうか。 さらに昨
6・3・3の学校時代、通信簿の体育の欄はいつだって3だった。 基礎体力は周りと比べてそんなに劣っていないと思うのだが、なんにせよ競技スポーツ、とりわけ球技が壊滅的に下手だった。 元々片目の視力が低く、遠近を把握する力が弱かったこともある。 しかし何というか、より根本的には、「自分が見たもの、イメージしたものを、ダイレクトに体に反映する能力」が決定的に欠けていたのだと思う。 すなわち、例えば車を運転するとして、何かが不意に飛び出して来たとする。 すると人は反射的にブレーキを
秋にしか着られない服というものもある。 まさに今着ないでいつ着るのだという、秋物のジャケットなどを慌てて引っ張り出しているのだが、すぐに厚手のコートに取って代わられるのは目に見えているわけで、ならば最初からコートを出した方が楽ではないかというジレンマ。 何かもう少し上手い着回しがあるはずなんだがなぁ。
最近の歌が聞き取れない。 朝ドラの主題歌など、何ヶ月も毎日聴いているのに、どうしてもわからないフレーズがある。 今回だけではない、前回も前々回も、すべては聞き取れなかった。 近頃の歌唱法が合わないのかとも思ったが、考えてみれば、あの英語だか日本語だかわからない桑田佳祐のボーカルは、聞き取ることができる。 ならば、老化による聴力の低下なのだろうか? 「最近の歌が聞き取れない」ではなくて「最近、歌が聞き取れない」なのかもしれない。 いずれにせよモヤモヤする問題だ。 もし
連れ合いは、わたしが見栄えの良い夕食を作った日には、自分の手柄のようにスマホで撮影するのだが、自分で作った食事を撮ることは決してない。 そうやって撮りためた写真をどうするのかと思うのだが、別にSNSにあげるでもなし、後から見返すでも、ましてや自分の料理の参考にするわけでもない。 手が映り込んだだの、構図がどうのと面倒臭いことこの上ないので、今度嫌がらせに連れ合いの作った煮物でも撮影してやろうか思う(多分ひともんちゃく起きるからやらない)。