意識されない能力(美術編)
さて昨日の話だ。
要約すると、体育やスポーツの才能というのは体力とか持久力ではなくて、実は「自分がイメージした動きを、自分の体でそのまま再現できる能力」なのではあるまいか、ということであった。
そんなこと書いてなかったかもしれないが、まぁそういうことが言いたかったのである。
こういう能力に何か名前がついているのかどうかはわからない。
世の中には賢い人がたくさんいるので、きっと誰かが研究しているとは思うのだが、しかし意外と見逃されがちな視点なのではないだろうか。
さらに昨日の話に引きつけていうならば、学校生活を通してずっと体育が3だったわたしは、逆に5しかとったことのない科目も持っているのである。
つまりそれが、図画工作、美術だ。
できなかった側からの考察は、できる側からの視点を経て初めて説得力を持つ。
というわけで今日は「美術方面に不可欠な能力」について考えてみようと思っている。
ずいぶん偉そうな書きっぷりだけれど、偉そうついでに、わたしは元美術教師である。
わたしが教員になった40年ほど前、わたしが思っていたお絵かきの必勝法はただ一つ「よく見て描け」であった。
かの巨匠、いわさきちひろは幼少の時から天才的に絵がうまかったらしいのだが、その子供の頃のちひろは、大人に絵を描くコツを尋ねられると迷いなくこう答えたのだという。
「簡単よ、見た通り描けばいい」と。
これを聞いて、さすが天才と思うか、嫌味ったらしいガキだと思うかは人それぞれだろうけれど、とにかくこの言葉は全く正しくて、絵など最初は「見た通り描け」ればそれで十分なのである。
教わる方からすれば、そうできないから、やり方を教えろということになるのだが、こちらの答えは「えっ、丸いものは丸く、四角いものは四角く描けばいいだけだろう」以外にはない。
「モチーフのこの辺は右上がりなのに、お前さんの書いた線は下がっている」
「ここのカーブは最後奥に回り込むのに、君の絵ではそうなっていない」
指摘されれば、皆確かにそうだという。
だったら君はぼーっとして見ていないのだ。
そういう意味での「よく見て描け」であった。
だから、教員になった頃の自分は「よく見て描かない」生徒たちに苛立つこともあった。
「なぜ目の前にあるものをきちんと写しとろうとしないのか」と。
実際ズボラをして、五枚ある花びらを三枚で済まそうというような、けしからんやつは結構いたので、それは決して間違えた指導ではなかったのだが、どうもそういう範疇では捉えられない生徒もいることがわかってくる。
例えば長辺と短辺の比が2:1の四角形をがあるとして、それを2:1と認識する能力とか、認識した2:1の四角形を画面に描く力とか、どうやらその辺りから個人差があるらしいのだ。
ヘタをすると線をまっすぐ引くとか、五つ並んだモチーフのうちいちばん手前にあるものを認識するとかいったことすら、すんなりいかない生徒がいることにも気がついた。
ざっくりいってこれを「空間把握能力」という。
右から左にただまっすぐ引いた線が、水平なのか傾いているのか、その辺りがすんなり頭に入ってこないとしたら、それは確かに絵を描くのはむずかしかろう。
さて、ここまで書いて気がついたわけだが、これは昨日の記事に書いた、一本足打法を上手にまねできないとか、頭で理解している背面飛びを、自分の身体で再現できないとかいう問題と近いものがある。
できる者には何でもなくて、というか当然人間ならできるだろうと考えることが、できない者にはどうしてもできない。
一方できない者は、できる人間がなぜできるのか想像もつかない。
どうやらこういうことは、実は我々が考えているよりずっと多いのではなかろうか?
これは我々が毒されている、「誰でも努力すればしただけ結果が出る」或いは「結果を出せない奴は努力していないのだ」という素朴な信仰に基づいてものを考えていると、どうしても見逃しがちな視点である。
何かをものにできなかった時、「それは本人の努力が足りない」ではなく、また「教え方が悪い」でもない、「本人の能力とその克服の方法」を考えるという方向での解決を模索することが求められるのだろう。
壮大な話になった。
相変わらずどこに行くかわからずに文章を書いている。