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意識されない能力(体育編)

6・3・3の学校時代、通信簿の体育の欄はいつだって3だった。
基礎体力は周りと比べてそんなに劣っていないと思うのだが、なんにせよ競技スポーツ、とりわけ球技が壊滅的に下手だった。

元々片目の視力が低く、遠近を把握する力が弱かったこともある。
しかし何というか、より根本的には、「自分が見たもの、イメージしたものを、ダイレクトに体に反映する能力」が決定的に欠けていたのだと思う。

すなわち、例えば車を運転するとして、何かが不意に飛び出して来たとする。
すると人は反射的にブレーキを踏むわけだが、この時「はて、ブレーキは左だったか右ったか?」とは考えない。或いは「ブレーキを踏むべきか、それともハンドルを切るべきか」の判断もしない、そんなこと考える前に体は勝手に動くものだからだ。

しかし、中にはどうしても視覚情報が直接的に手足に伝わらず、一旦頭で納得してからでないと体が動かないタイプの人間がいるということだ。
ボールが飛んできたときに、「さぁ受けるぞ、手を動かせ」みたいに脳が反応すると、どうしたって動作は遅れる。
頭の中で回転レシーブの形を反芻しながらでは、飛び込む前に得点されてしまうわけだ。

もちろん、これはある程度の訓練で克服できるのだが(だからわたしも免許を持っている)、それにしても向き不向きというものはある。ましてやスポーツにおいて、事は瞬発力だけにとどまらない。

王貞治の一本足打法をご存知だろうか?
確実に人類は、あれを見ただけてちゃんと再現できる人間と、そうではない人間に二分される。
ちゃんと一本足でスイングしたつもりでも、どのタイミングで、どの角度に、どのくらいの高さで足を上げるのか? 踏み出す幅はどのくらいか? 体の傾きはどうするのか?
そういうことが考えずにできるか否かで、体育の成績の9割は決まるのである。

なぜ見ただけで、あの複雑なプロセスを再現できるのか?
できない人間にとって、できる人間の動きは驚異的ですらある。
一方できる人間にとっては、なぜ見たままやることができないのか、全く理解できないであろう。

大袈裟な話だと感じるかもしれないが、生まれて初めてディスコに行って、すぐにそれらしく体をくねらすことのできる人もいれば、何やらひょっとこ踊りになってしまう者もあることは、誰しも経験しているのではないか?

あれはノリとか音感の問題ではなくて、まさにこの「イメージしたものをその通り体の動きに反映する能力」の差なのである。

これはもう、生まれついてのスペックの問題である。
真剣にやれとか、根性で乗り切れで解決できる話ではない。

なのでわたしは高跳びでは、とうとう背面飛びをものにできなかったし、
野球でヒットを打ったことは多分人生で5回以下である。
スキーではボーゲンからパラレルターンに移行することもできなかった。
スケートに至っては初体験時に転んで骨にヒビが入ったので、それっきりスケート靴を履いていない。

まぁ、それでも体育は3だったのだ。
考えてみれば悪くないかもしれない。

〈この話続く〉


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