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アートをめぐるあれこれ

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さすがに長く生きていると色々考えてきた。 文章にすることで少しずつ思考をまとめようとしたら、 書き散らしているだけだなこれは。
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八百万

八百万

働く場所に神棚というのは、私たちが普通にみる風景だ。

古来、八百万の神などといって、我々は森羅万象ありとあらゆるものに神様の姿を見出してきた。

そういう流れで本邦では、暴力団の事務所から中小企業の営業所に至るまで、しばしば神棚がしつらえてあるのを目にすることができる。
国家を代表する大企業の、自社ビルの屋上あたりに、ひっそりとお宮が祀ってある様子も、特に珍しいものでもないだろう。

そしてこれ

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色の話

色の話

先日、水彩画を教えていて、「このビリジャンがですね・・」みたいなセリフが口をついて出たのだけれど、ビリジャンだとか、クリムソンレーキとか言っても、残念ながらほとんどの人には伝わらない。

それはもうずっと前から、それこそ人に教える仕事を始めて以来、身にしみてわかっているのだから、もういいかげん別の言い方を考えろと、自分に対して歯痒く感じている。

ここまで書いて、ということは読んでいる人にも伝わら

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またぼやいています

またぼやいています

今日から4回、いつもとは別の公民館で代打講師である。
行ってみると、普段わたしのやっている教室と似たような構成で、まぁ慣れ親しんだ雰囲気だ。

というわけで教室自体は滞りなく進行して、まずまず問題なく終了したが、気になったのは、やはり生徒さん方の年齢層だ。
これは自分の教室でも一緒なのだが、有り体にいってだいぶ高齢化が進んでいる。

お話を伺うと、やはり長くやっているとだんだん平均年齢が高くなり、

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顔考

顔考

昔、石膏デッサンの下手なやつは、どの像を描いても顔が本人に似る、という都市伝説があった。

これには多少のエビデンスがあって、誰でも人生で一番よく観察している顔は、たぶん自分自身の顔なので、無意識のうちにそれが出てくる、という理屈である。

毎朝鏡で見る顔こそが、ベーシックなものとして、意識に刻み込まれるのではないか、というわけだ。

確かにわたしの経験では、生徒に自画像を描かせるのと、二人組にし

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2024 5 13の3行日記 (小難しい)

2024 5 13の3行日記 (小難しい)

世界を観察して、それを自分というフィルターを通して再構成し、出力するのが芸術である。

フィルタリングの手順や方法に自覚的であればあるほど、それは技術に近いものとなり、他方、作家本人が把握しきれていないブラックボックスの思考回路がある場合、これを感性と呼ぶことがままある。

作家とは、己のフィルターとしての性能を信じられる人間のことだ。

[覚え書き]柿渋[マニアック]

[覚え書き]柿渋[マニアック]

柿渋(かきしぶ)というものがある。
何かというと、これは日本古来の塗料である。

青柿の実を絞って発酵させもので、これを塗ったものはオレンジ色に染まり、紫外線によって徐々に落ち着いた赤茶色に変化する。
そのままであれば木目を生かした仕上げとなり、
弁柄や松煙と言った顔料を溶かして着色すれば、不透明な塗料にもなる。
要するに昔からある、天然のニス兼ペンキみたいなものである。

家屋の壁、塀、家具、什

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才能、遺伝と環境

才能、遺伝と環境

覚え書き。

才能は遺伝するのかという話。

例えば、我が家は6人家族だが、多少なりとも絵画の才能があるのは、多分わたしと母だけである。

母の絵を見たのは数回だけしかない。

経営していた店のポップに添えてあったのが一度、晩年デイケア先で描いてきたのを持ち帰ったことが何度か。
いずれも丁寧な作業で、平均よりはよく描けているかな、といったレベルで、ボケが進んでからはきちんと描けなくなった。

父の

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サルの絵

サルの絵

遠い昔の学生時代。

私が卒業制作に描いた絵は「ヒューマニズムと自然」というタイトルでした。
ずいぶんと哲学的かつ難解で、今となっては自分でもさっぱり理解できないんですが、まぁ、ずっと過去のことです。きっとあの頃は、少しばかり賢かったのでしょう。

で、その高尚なテーマのもと何を描いていたかと言えば、「サル」の絵なのです。いったい何でサルだったかはここには書きませんけれど、もちろん当時の私のなかで

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キャッチボールと遠近感

キャッチボールと遠近感

その昔、戯れにボール遊びなどした時であった。
誰かが、「キャッチボールができない奴は信用できない」といったことを口走った。

わたしはキャッチボールが苦手である。

この日のことは、今でもたまに思い出すし、苦い気持ちにもなるので、結構悔しかったのだと思う。

キャッチボールが苦手なのにはわけがあって、わたしは生まれつきの弱視で、左目の視力が極端に弱かった。

人間は右目と左目の視点のズレから、対象

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講評会

講評会

Twitterで「講評」について話題になっていたらしい。
まぁごくごく狭い範囲の、しかもマイナーな分野でのお話で、その上、わたしのタイムラインなんて貧弱そのものだから、元々のツイートすらよくわからない。
ただここ数日、そんな話題がちょこちょこ流れてきて、
おもしろいのは、そのほとんどが、なんというか自分語りなのだな。
みんな「講評なんて、ふんっ」と言うようなスタンスで、それでもそれなりに思い入れが

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進歩がない

進歩がない

庭にある、百人乗っても大丈夫的な物置。
訳あって中を整理して解体することとなった。
中にあるのは、ここ20年分のわたしの作品である。

さすがにも20年たつと、作ったことすら忘れているような作品も多い。
あと、大概は展示しているのだが、こんな出来の悪いものを並べていたのかと、冷や汗をかくようなものとか。
まぁ心臓に悪い。

これを、とっておくもの、バラして材料に還元するもの、
そしてその存在を永遠

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ヌードデッサンあれこれ(2)

ヌードデッサンあれこれ(2)

昭和の時代はまだまだいろいろなことに無自覚で、(女性の)ヌードデッサンみたいなことも、しばしば下世話なエロ話として語られることがままあった。

初めてヌードデッサンに挑む高校生男子は、先輩からからかい半分に、様々な忠告だか警告だかをうけて、ガチガチに緊張して当日を迎えたものである。
しかしながら、いざその場にたつと、拍子抜けするほど何もなく
(いや、まあ何かがあるわけもないのだが)淡々と、普段描い

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ヌードデッサンあれこれ(1)

ヌードデッサンあれこれ(1)

何年か前だったか、母校の大学で、フェミニズムの観点から、ヌードデッサンの課題がなくなったという話が流れてきて、その時は何じゃそれと思った。
人体の構造や佇まいを理解するのに、ヌードデッサンというのは大変重要な課題だし、美術の専門教育の場がそれを手放してしまうのは、どうしようもない愚行に思えたのだ。
しかし、そもそもフェミニズムのという件が正確かどうかわからないし、女性ヌードがなくなったのか、男女と

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形の人、色の人

形の人、色の人

覚え書き。

美術の世界には、形の人と色彩の人がいて、
分かりやすい例だと前者がセザンヌで後者がルノワールである。

ピカソとマチス ドガとロートレック 安井曽太郎と梅原龍三郎。

彫刻の人と絵画の人というのもいる。
モディリアーニは画家だが、本質は彫刻の人だと思われるし、ジャコメッティはその逆。
ミケランジェロは絵も彫刻もよくしたが、圧倒的彫刻の人。
一方ダ・ヴィンチは万能の天才だが彫刻の香りは

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