hosakanorihisa

「写真の物質性」や「アーカイブのメディア論」をテーマに、写真を撮っています。リサーチの読書ノート、アーティストステートメント、日々の気付きをアップしています。 Amazonアソシエイツは辞めました。参照先として、Amazonリンクを貼ってます。

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最近の記事

〈ライカ〉という絵筆の呪い

〈ライカ〉がブームである。 自分もライカM6を持っているし、確かにライカQ2モノクロームとか欲しい。 しかーし高い、高すぎる。ボディが100万円で、プラスレンズ50万円。だったら、100万円で撮影旅行して、50万円で個展ができるじゃん、とか思う。 これがYoutuberならば、カメラは経費として計上できるし、ライカならばリセールバリューも高い。節税対策になるので理解ができる。 だからなのか、たびたびライカネタが炎上する。 この憧れと憎しみが入り交じった何か、がいまの〈ライカ〉

    • 『近代美学入門』の“第3章:美”と“第4章:崇高”と“第五章:ピクチャレスク”の読書ノート

      『近代美学入門』の「本章のポイント」を中心の読書ノートです。 最後の章“おわりに”は、読書ノートのの繰り返しになるのでなし。 これで一冊、まとまりました。 また、ここから先はyoutubeにアップされていない内容です。残念。 今回、取り上げられている崇高やピクチャレスクは、自分は都市風景を撮っていて、ずっと興味があるところでした。 読んでいて気がついたのは、美学の美学として自文化中心主義にならないように気を使った気がします。 第三章:美 均整がとれたものから各人が感じるもの

      • 『近代美学入門』の“第1章:芸術”と“第2章:芸術家”の読書ノート

        『近代美学入門』は毎章、「本章のポイント」という項目がある。 その部分から読書ノートをまとめた。 また、この本は元々「KUNILABO 2021年4月期『近代美学入門』」という講義がだったようだ。 第一回「芸術」と第二回「芸術家」だけは、Youtubeで見ることができる。おすすめ。 この新書に関してのトークもある。 第一章:芸術――技術から芸術へ 第1章のテーマは芸術という概念の歴史です。p26 「アート」やそれに相当するヨーロッパ各国の言葉(フランス語の「アール」、ドイ

        • 『近代美学入門』の“はじめに”の読書ノート

          青田麻未著『「ふつうの暮らし」を美学するの読書ノート』によると、芸術を対象とするカントの美学から、環境美学がスピンアウトし、そこから日常美学が生まれたと言います。 とすると、カントの美学を読んだ方がいいな、ということで青田先生もお勧めの井奥陽子著『近代美学入門』の読書ノートをまとめようと思います。 ・はじめに 本書は美学についての本です。美学とは、美や芸術や感性についての哲学です。哲学ですから、抽象的な話をします。美とは何か。芸術とは何か。本書ではそういった概念を扱います。

          「ふつうの暮らし」を美学する家から考える「日常美学」入門の3章の読書ノート

          順番は前後しますが、『「ふつうの暮らし」を美学する:家から考える「日常美学」入門』三章「芸術と日常の境界――料理を事例として」の読書ノートを送ります。 というのも、読書会を行うに当たり、保坂が序、三章と四章の係になったからです。 この章では、料理するを制作≒日常美学の対象、食事するを鑑賞≒旧来の美学対象であると考えられている現状を、「料理とは芸術ではない」として とあぶり出すことが目的のようです。 〈日常美学〉とは制作者の美学であることを、記してることに保坂は熱く燃えま

          「ふつうの暮らし」を美学する家から考える「日常美学」入門の3章の読書ノート

          木村伊兵衛とライカと新興写真運動

          写真家に対して〈ライカ〉という絵筆は一種の呪いとして存在している。とは、広く同意していただけるだろうか? ちょうど『僕とライカ:木村伊兵衛傑作選+エッセイ』を読み返してみた。 写真の勉強を始めた頃に読んだきり、こうやって読み返すのは本当に数年ぶりのことだ。 いま読み返してみると、太平洋戦争前後の写真史が頭に入っているので、当時の貴重な証言として読み返すことができた。 以前から、ピクトリアリズム写真からストレート写真への変遷。とくに〈新興写真運動〉、ノイエザッハリヒトカイト/新

          木村伊兵衛とライカと新興写真運動

          「ふつうの暮らし」を美学する家から考える「日常美学」入門の4章の読書ノート

          前回に引き続き、青田麻未著『「ふつうの暮らし」を美学するの読書ノート』4章:親しみと新奇さ――地元を事例として の読書ノートを、毎週火曜日のゼミに向けて、読書ノートとしてアップする。 ここは、都市風景写真家としての一番興味がある章だった。 メディア論としてもおもしろく読めると思う。 4章:親しみと新奇さ――地元を事例として 前節から言及していた「親しみ」と「新奇さ」は、日常生活のなかでごくふつうに使うことばでもあるでしょう。こうしたことばが指し示す感情について美学的に考え直

          「ふつうの暮らし」を美学する家から考える「日常美学」入門の4章の読書ノート

          『「ふつうの暮らし」を美学する家から考える「日常美学」入門』の前書きと序章の読書ノート

          ご無沙汰しています。 青田麻未著『「ふつうの暮らし」を美学するの読書ノート』の読書ノートを、毎週火曜日のゼミに向けてアップする。 ゼミということで、いわゆる“読書会”というほどかっちりしていないので、概説と写真家として興味あるポイントだけピックアップしようと考えてる。 この本は新書なのだが、以前から提唱しているように、新書というのは全部読まなくてもいい。 とりあえず序章だけ読めば、大体の内容がわかる。 この読書ノートも、序章だけまとめる。 ・まえがき 本書を読み進めていた

          『「ふつうの暮らし」を美学する家から考える「日常美学」入門』の前書きと序章の読書ノート

          まえがき:New Japanese Photography 1974

          ご無沙汰してました。 保坂です。 元気です。 写真も本も、たくさん読んで、撮ってます。 最近はSNSをThreadsに移し、読書日記を書いていました。 そのせいで、こっちはあまり更新しなかった次第。 おもに〈メディア考古学〉からの写真の物質性を考えていましたが、そのマイブームは去って、いまは〈日常美学〉を掘っているところです。(^^) さて、MOMAが1974年に開催した『New Japanese Photography』がアップされているとThreadsでしり、書きおこし

          まえがき:New Japanese Photography 1974

          メディア考古学とバリ島

          七月十九日から二十六日まで、16年ぶり夫婦でバリに行ってました。目的はポテトヘッドでの細野晴臣のライブに行くこと。 前日入りして二十日にライブ、二十一日から二十六日までウブドのイバーに泊まりました。 毎日マッサージを受けて、インドネシアの経済成長に驚き、細野晴臣に浸ってました。 そのバリの飛行機の中から読書熱が再燃して、パリッカの『メディア考古学とは何か?:デジタル時代のメディア文化研究』を読了した。 これがなかなか、自分の中の大革命だったのだ。 長らく「写真論はつまらね~

          メディア考古学とバリ島

          〈気軽な読書〉はどこにいってしまったんだろうか?

          ノートに書くのもお久しぶりである。 ちょっと身内に不幸があり、いろんなことを呆けてみていた。 読書会はすべて休み、積極的な読書も辞めていた。 ここ数ヶ月、入力をとめてだらだらと受動的にSNSを見ていた。 それも、もうそろそろと思い、徐々にリハビリを始めているところ。 このノートもリハビリのつもりで書いている。 リハビリ読書として選んだのは、べたもべた、べったべたのベストセラー『赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫) 』である。 語りかけるようなエッセイの文体

          〈気軽な読書〉はどこにいってしまったんだろうか?

          京都と東京、〈実〉と〈虚〉

          先週末、京都に行ってきた。 完全なるバカンス、楽しむだけに京都に行ってきた。 京都は土地の力が強いので、必然的に何かを気づかせてくれる。 保坂を直接的に知っている人はわかってくれていると思うが、自分は言語感覚が強く優位で、身体感覚が弱い。 坐禅を組んだり、食事をしたり、お店の人と話すだけで、京都と東京の違いを感じ、自分の頭が〈実〉、体が〈虚〉であることを感じさせてくれる。 写真を撮ってはいたが、全く手応え感じてはいなかった。これは撮っておくかという、それだけのものはずだった

          京都と東京、〈実〉と〈虚〉

          〈写真の物質性〉を根本から考えなおすことになった。

          ティルマンスが「写真は三次元的オブジェ」と言ったり、シャーロット・コットンが「オリジナルに似たオブジェクトの表現。転写や翻訳ではなく、並行形式の同等のもの」と言ったり、またはデジタル写真やヴァーチャルリアリティなどに時代性を踏まえて〈写真の物質性〉が言祝がれている。 これは単純に触感、写真集の重みや写真プリントのカール、みたいなもの。 またはバルトの写真のノエマ、〈それはかつてあった〉という時間性、だと思ってた。 いやいや事は、もっと単純だったとこの本を読んで気がついた。

          〈写真の物質性〉を根本から考えなおすことになった。

          キヤノンEOS 80DとInsta360 oneを手に入れる。

          藪から棒の枕だが、いま〈四人称〉が気になる。 元はといえば、大山顕『新写真論:スマホと顔』にこのような下りがあったからだった。 この〈四人称〉が何かと思ったら、外山滋比古『第四人称』という本があり、早速、中野区の図書館で借りる。 つまり〈四人称〉とは写真家の目線ではないか? と思い始めたのが、そもそもの始まりだった。 一方でゲーム用語に〈一人称視点〉という言い方がある。 いわゆるPOVの視点、風景写真の視点だ。 一方で、風景や敵キャラと同時にキャラクターの背中が見えるのが

          キヤノンEOS 80DとInsta360 oneを手に入れる。

          Also sprach Wolfgang:ヴォルフガングはかく語りき

          保坂です。 この文章は『美術手帖2004/12 p145-151』に掲載されている「Also sprach Wolfgang:ヴォルフガングはかく語りき」という、2004年10月16日に行われたヴォルフガング・ティルマンスのアーティスト・トークの記事です。 ティルマンスのインタビュー記事は少なく、この美術手帖の記事も二十年前ということで、なかなか読めない内容になってます。 現在の写真を考える上でも、大事な資料だと思い、少々乱暴なことは承知の上で記事を引用し公開します。 読む前

          Also sprach Wolfgang:ヴォルフガングはかく語りき

          村上靖彦『客観性の落とし穴』読了

          村上靖彦『客観性の落とし穴』を読み終えたのだが、うーん不満。 というのも、まぁ良い意味でいうなら期待を裏切られた良書。 悪い意味で言うならば、帯が内容を詐称してる。 一方で、ロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン『客観性』の読書をサボれるか?という、保坂の期待を裏切られてしまったのが不満。(^^) 村上靖彦氏は基礎精神病理学と精神分析が専門なので、ベースとして医療倫理として論がまわされている。 健康とは何か?とか、地中海を中心とした西欧という地方の文化方言に興味がある保坂と

          村上靖彦『客観性の落とし穴』読了