「ふつうの暮らし」を美学する家から考える「日常美学」入門の3章の読書ノート
順番は前後しますが、『「ふつうの暮らし」を美学する:家から考える「日常美学」入門』三章「芸術と日常の境界――料理を事例として」の読書ノートを送ります。
というのも、読書会を行うに当たり、保坂が序、三章と四章の係になったからです。
この章では、料理するを制作≒日常美学の対象、食事するを鑑賞≒旧来の美学対象であると考えられている現状を、「料理とは芸術ではない」として
とあぶり出すことが目的のようです。
〈日常美学〉とは制作者の美学であることを、記してることに保坂は熱く燃えます。
まず本章では、料理が芸術から排除されてきた二つの理由についてみていきます。一つは、第二節で扱う「諸感覚の区別」です。伝統的に、美学においては視覚・聴覚と、触覚・味覚・嗅覚のあいだに大きな分断線が引かれていました。そして、前者のグループこそが美的経験をもたらすと考えられていたのです。もう一つは、第三節で扱う「芸術の永続性」に関わる問題です。伝統的に、芸術とはなんらかのかたちで永久に残るものだと考えられてきました。これに対して、料理は食べたら消えてしまうしそのため、芸術ではないという発想が成立していました。p136
本章の議論を通じて、一貫して伝えたいのは、料理は芸術だということではなく、料理を通じて見えてくる芸術と日常の境界線の曖昧さです。この二つの領域の境界線はつねに揺らいでいて、だからこそ興味深い現象が生じうるのです。p137
このような考えのもとでは、そもそも、料理のように低級感覚が与えてくれる快は、美的な快とは異なるものだとみなされます。
序章でも確認したように、美的経験は無関心性を一つの条件とする経験だと考えられてきました。対象に対するあらゆる実践的な関心を抜きにして、つまりその対象がなにかの役に立つかどうかを一切気にせず、ただそれ自体を鑑賞するのが楽しいから鑑賞している――美的経験はこのような経験であり、このとき生じているのが美的快です。つまり、美的供とは私たちが感じるいろいろな種類の快のなかでも、なんの役にも立っていないのにそれでもなお快い、という特殊性を持つものだと定義されてきたのです。
ではこの定義にもとづいたとき、料理から得られる味覚の快は、美的快と呼べるでしょうか。それは難しい、というのが、美学が与えてきた答えです。というのも、食べることはあまりに密接に、私たちの生命維持活動と結びついているからです。p142-143
そのため、料理によって与えられる快は、たんなる感覚的快とみなされ、美的快のように生活の必要から切り離された高次の、精神的な快を与えてくれるものではないと考えられました。p143-144
イタリアの哲学者であるティツィアナ・アンディナ&カロラ・バルベロは、まさしく「食べ物は芸術になりうるか?」と題された論文を書いています。このなかで二人は、前節で確認した生存維持への関与と並んでもう一つ、料理が芸術とみなされてこなかった理由として、「消費排除テーゼ」が美学において支配的な立場であったことを挙げています。
このテーゼは、芸術とは消費されないものである、と主張します。たとえば、絵画のような芸術作品は、私が見ることで消えてなくなってしまったり、その魅力を減じたりするものではありません。昨日、私が展覧会で観た絵を、今日まったく別の人が同様に楽しめるでしょうし、それどころかきちんと保存すれば百年後の人も楽しむことができる――このような時間を超えて存在する永続性を、芸術作品は有しています。p153
このような問題については、芸術の存在論という分野で議論されてきました。日常美学について考える本書ではあまり深入りはできませんが、ひとまず次のようにまとめることができるでしょう。つまり、〈芸術作品が時間を超えて存続する〉というとき、よくよく考えてみると、その存続の仕方にはおおまかに言って二通りあるということです。
一つは絵画のように、あるとき作者が完成させ、そのままの姿でモノとして残る方法です。そしてもう一つは、音楽作品のように、あるとき作者が楽譜のような「指示書」を残す方法です。p156
つまり、一回一回の料理は食べれば都度確かに消えてしまうけれど、レシピを介して、料理もまた時間を超えることがあるのです。p158
本章の第一節で、コースマイヤーという美学者が、味覚に代表される低級感覚もまた美的経験を生じさせると主張していたことを確認しました。しかし、実はコースマイヤーは、だからといって料理は芸術である、とは主張していません。彼女によれば、料理は何度も反復してつくらなければならないものであり、終わりのない行為であるという点で芸術とはかなりちがっていると指摘するのです。p166
ここでもやはり、私たちが「鑑賞者」ではなく「制作者」として日常生活に関わっているという、世界制作というキーワードを通じて提示された観点が重要になってきます。p166
このように、家での料理の制作には、何度も同じ場所で繰り返されるという特徴ゆえに、芸術制作ほどの自由を享受できない場合が多くあるように思われます。確かに、食べる=鑑賞する局面のみに目を向ければ、家庭料理も含めて料理はすべて芸術だ、と言えるような気がします。しかし、日常美学において重視される制作の観点をも捉えてみると、料理の制作は芸術の制作とは現状異なっていると考えられるのです。P171
以上の理由から、本当に家庭料理を芸術と呼ぶためには、鑑賞というよりも制作の場面において、私たちはまだ乗り越えなければならない、いくつものハードルの前で佇んでいる状態にあるのではないかと私は考えます。p173
あるいは、もし技術のさらなる発展などで料理をつくることが生活上まったく必要ではなくなる未来が訪れても、私たちのうちいくらかは料理をつくり続けるでしょう。そうなったときに、その人たちにとって、料理は本当の意味で「芸術」になるのかもしれません。p174
2024/10/27 1:32