『近代美学入門』の“第3章:美”と“第4章:崇高”と“第五章:ピクチャレスク”の読書ノート
『近代美学入門』の「本章のポイント」を中心の読書ノートです。
最後の章“おわりに”は、読書ノートのの繰り返しになるのでなし。
これで一冊、まとまりました。
また、ここから先はyoutubeにアップされていない内容です。残念。
今回、取り上げられている崇高やピクチャレスクは、自分は都市風景を撮っていて、ずっと興味があるところでした。
読んでいて気がついたのは、美学の美学として自文化中心主義にならないように気を使った気がします。
第三章:美 均整がとれたものから各人が感じるものへ
第1~2章では、芸術や芸術家という概念が17~19世紀に形成されていった経緯をお話ししました。同じ頃、美の概念についても大きな変化がありました。
それが先ほど述べた、美はもののなかにある(数学的に捉えられる)という思想から、美は感じる人の心のなかにある(個々人の感じ方による)という思想への変遷です。p133-134
その結果、それまでは道徳的または宗教的によいものが美しいとか、役に立つものが美しいといったふうに考えられていたところ、美はそうしたことに縛られないと捉えられるようになりました。これを「美の自律」と言います。美が独立した価値になったことは、第1~2章で紹介してきたような、近代における芸術に関する変化とも連動しています。p134-135
第四章:崇高 恐ろしい大自然から心を高揚させる大自然へ
第3章では、近代に美はそれぞれの人が感じるものになったとお話ししました。それにともなって、それまでの美の概念からは逸脱するようなものに、新しい一種の美しさが認められるようになっていきます。美が主観的になっていくと同時に、美の種類も多様になっていったのです。p193
自然の景色は、ヨーロッパの伝統的な美の概念に相反するものです。自然は目に見える姿としては、不規則で無秩序だからです。p194
自然の景色はプロポーションで捉えることができず、秩序や調和も見いだされません。それが近代になると、そうした不規則や無秩序あるいは不調和が肯定的に捉えられ、ある種の美しさが見いだされるようになるのです。これは大きな転換でした。p194
しかし、不調和なものがなぜ心を惹きつけるのでしょうか。これが近代人にとって大きな謎でした。それまでの「美」では説明できない、恐怖と混じり合った高場感という、この矛盾するような感情を言い表すために用いられるようになったのが「崇高」の概念です。p195
第五章:ピクチャレスク 荒れ果てた自然から絵になる風景へ
第4章では、近代になると自然の無秩序さが肯定的に捉えられるようになり、とくに大自然のもつ魅力が「紫高」と呼ばれるようになった、とお話ししました。なかでもエトマンド・バークの「崇高と美の起源』がこの概念を確立したことも紹介しました。
18世紀後半のイギリスでは、バークのこの著作に影響を受けつつ、さらに崇高とは別の概念が誕生します。それが「ピクチャレスク」です。
ピクチャレスクは崇高と同様に、自然の無秩序さや不規則さがもつ魅力を表す概念です。
この点で、伝統的な美の概念には当てはまらない、新しい美意識を表すものでした。
他方、ピクチャレスクは崇高ほど巨大で凶暴な自然ではなく、比較的穏やかな景観に対して使われた概念です。しかもたんなる無秩序ではなく、ちょうど1枚の風景画のように、全体としてはバランスのとれた風景のことを指します。p250-251
こうして美、崇高、ピクチャレスクという三つ組が、近代の美意識を表す概念として成立することになります。p252
さて次はどうしよう。また。
2024/11/08 15:51