メディア考古学とバリ島
七月十九日から二十六日まで、16年ぶり夫婦でバリに行ってました。目的はポテトヘッドでの細野晴臣のライブに行くこと。
前日入りして二十日にライブ、二十一日から二十六日までウブドのイバーに泊まりました。
毎日マッサージを受けて、インドネシアの経済成長に驚き、細野晴臣に浸ってました。
そのバリの飛行機の中から読書熱が再燃して、パリッカの『メディア考古学とは何か?:デジタル時代のメディア文化研究』を読了した。
これがなかなか、自分の中の大革命だったのだ。
長らく「写真論はつまらね~。中平卓馬から更新されてねー。」とぼやいていたことは、過去のノートに読んでいただければ、どこかにあると思う。
しかし、それは自分の全くの不勉強であったことが、今回わかった。
マクルーハンをはじめとするトロント学派とはまた別に、キットラーをはじめとするドイツメディア論の流れがあったのだ。
マクルーハンはメディアを〈身体の拡張〉と言祝いでいたのはご存じだと思うが、キットラーはフーコーの流れをくんでメディアを〈エピステーメー〉=歴史的アプリオリとヒトをしばる権力と考えた。
さらに並行してつまみ読みをしていた、『いま世界の哲学者が考えていること(朝日文庫) 』をチラ見して、やっとやっと自分の立ち位置がわかってきた。
自分は写真をずっと〈言語論的転回〉=テクスト論と理解してきた。
学んだマスタークラスは「写真がヴィジュアル言語であったなら・・・」から始まっていたのだ。
その〈言語論的転回〉の写真論や写真制作に、「写真論はつまらね~。中平卓馬から更新されてねー。」っと辟易していたのだった。(^^;
なのでコロナから写真をあまり撮らず、ClubhouseやYouTubeで語ったり、読む本と言えば文化人類学とメディア論、ちょっと言語学に寄り道していた。
これが21世紀の哲学のトレンド=ポスト〈言語論的転回〉に触れていたのだったよー。
聞き流す人類学や奥野克巳先生、インゴルドらの文化人類学の存在論転回とは〈実在論的転回〉=思考から独立した存在を考える、に通じそう。
このキットラーやパリッカのメディア考古学は〈メディア・技術論的転回〉=コミュニケーションの土台になる媒体・技術から考える。
ゆる言語学ラジオ系や今井むつみ、川原繁人は〈自然主義的転回〉=認知科学的に「心」を考える、に相当すると思われる。
ここで〈言語論的転回〉≒批判理論まみれの写真論から、やっと抜けられた気がする。
これは僕の中で、〈植物図鑑・中平卓馬〉に引導をわたせたことになる。
これからの〈メディア・技術論的転回〉を基に、写真を含めた人生全体が楽になりそうに思える。
これから「アーカイブのメディア論」を深めたいが、そっち方面はまだ日本語訳がないようだ。
ここで、とりあえず夏休みの宿題は終わった感じ。
次は〈メディア・技術論的転回〉を胸に、『現代写真とは何だろう(ちくま新書1809) 』を批判的に読もうと思う。
どっとはらい。
2024/08/18 12:33