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木村伊兵衛とライカと新興写真運動

写真家に対して〈ライカ〉という絵筆は一種の呪いとして存在している。とは、広く同意していただけるだろうか?
ちょうど『僕とライカ:木村伊兵衛傑作選+エッセイ』を読み返してみた。
写真の勉強を始めた頃に読んだきり、こうやって読み返すのは本当に数年ぶりのことだ。
いま読み返してみると、太平洋戦争前後の写真史が頭に入っているので、当時の貴重な証言として読み返すことができた。
以前から、ピクトリアリズム写真からストレート写真への変遷。とくに〈新興写真運動〉、ノイエザッハリヒトカイト/新即主義の日本受容が気になっていた。
木村伊兵衛を読んで、当時の雰囲気がよくわかった気がする。

一九二〇年代の終り頃からドイツを中心として起った新興写真運動が日本にも伝わって来た。まずそれをうのみにする前に、一応古い写真及び歴史をしらべなければならないという意見が一致して、杉浦君の肝いりでロンドンの古本屋から写真に関する図書を全部買入れて、分担で作家、作風、理論、技術を研究し合った。p65

僕とライカ 木村伊兵衛傑作選+エッセイ

ここで気がついたのは、あくまでも〈新興写真運動〉を歴史からリサーチしているところだ。
ダストンとギャリソンの『客観性』という、科学的自己の歴史を明らかにした本がある。ダストンとギャリソンによると認識活動を統制する三つの体制、それぞれ17世紀からの〈本性への忠誠〉、19世紀半ばの〈機械的客観性〉、そして20世紀初頭の〈訓練された判断〉という。
ここで木村伊兵衛らは、〈訓練された判断〉という新たな客観性を慎重に検討しているように感じた。

その頃ソヴィエト五カ年計画グラフ月刊『建設のソ連』が創刊され、ドイツの労働者グラフ『A・I・Z』とともに私にとっては隅々までもなめ尽した研究材料となった。また社会革命で全く新しい立脚点から出発したソヴィエト映画のうちの記録映画の制作にあたって、エドワルド・ティッセ、エーゼンスティン、プドフキンの示した新しい傾向にも学ぶ所が多かった。一方、新興写真運動の前衛の一人であるモホリ・ナギが一九二五年に著した『絵画・写真・映画(マーレライ・フォトグラフィー・フィルム)』と名付けられた著作を通じての勉強によって、この新興写真運動が、全ヨーロッパをはじめ国際的にその存在を明らかにして大きな潮流となったことを、はっきりと知った。

こういう新しい映画や写真運動は板垣鷹穂氏の学問的紹介で色々と勉強することはできたが、私の場合には技術的に割切れないものが残っていた。ドイツから帰国した岡田桑三、村山知義の両氏が国際光画協会の幹事となって、一九二九年にドイツのヴェルクブントによって構成された、あらゆる部門にわたる世界の前衛的な写真・映画の作品を網羅した世界最初の綜合的な国際「映画と写真」移動展覧会の写真部門を、朝日新聞東京本社の展覧会場で行った。

これをみることができて、古い写真に対する執着や、新しい写真への疑問は一掃された。そしてこの展覧会でつくづく感じたことは、今まで知っていた外国の有名な芸術写真家や職業写真家が何も見せてくれなかったのに反し、かえって伝統にとらわれないアマチュア写真家にょって、生活、芸術、科学的研究の諸種の領域で革新や飛躍がもたらされたという事実を立証したという点であった。

この世界移動展覧会で写真に対する社会的な要求、昂場がうながされて、写真のリアリズムへの傾向が非常にはっきりとなって来たとともに、その所産である報道写真の社会性は著しく増大してきたのである。すでにドイツでは写真新聞『ベルリーナー・イルストゥリールテ・ツァイトゥング』が発行され、わが国でも吉田謙吉、堀野正雄の諸氏が綜合雑誌へ報道写真を発表していた。この事実から考えて私の仕事も、写真のリアリズムの所産である報道写真の道に進まなければならないという考えを強くして、写場の仕事は断念した。カメラも、撮影の目的がはっきりしたのでライカに交換レンズを揃えることに決め、その準備をした。p67-68

僕とライカ 木村伊兵衛傑作選+エッセイ

『建設のソ連』発刊が1930年、満州事変が1931年に起こる。
同時期、米スティーグリッツらは〈ストレートフォトグラフィ〉を提唱していたが、それよりも日本からソ連やドイツが情報的に近かったことがよくわかる。
この段落は、wikipedia「新興写真」項目、そのままでおもしろい。
〈新興写真運動〉と〈ライカ〉は切っても切れない深い関係があるのが、よくわかった。
つまり〈ライカ〉の呪いとは、〈新興写真運動〉の呪い、木村伊兵衛の呪いでもあるわけだ。
2024/10/25 15:18

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