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まえがき:New Japanese Photography 1974

ご無沙汰してました。
保坂です。
元気です。
写真も本も、たくさん読んで、撮ってます。
最近はSNSをThreadsに移し、読書日記を書いていました。
そのせいで、こっちはあまり更新しなかった次第。
おもに〈メディア考古学〉からの写真の物質性を考えていましたが、そのマイブームは去って、いまは〈日常美学〉を掘っているところです。(^^)

さて、MOMAが1974年に開催した『New Japanese Photography』がアップされているとThreadsでしり、書きおこしました。
これは米国著作権法における、パブリックユースの範囲で転載自由であると考えています。
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/2525

〈転載〉
まえがき
MOMA: New Japanese Photography 1974    p13-p16


ジョン・シャーカフスキー
 今日では世界各国の文化の均質化が進み、その結果ある国名を冠した美術展は、美術としての価値がいちじるしく減少してしまった。だからといって、国ごとの特徴が存在しなくなったといおうとしているのではない。たとえばそのようなタイトルがついていなくとも、現代オーストラリア絵画展と現代スウェーデン絵画展とを見分けることは、専門家ならば可能であろう。しかし専門家でなければ区別がつかないということは、そのが大きな意味をもつものではないことを示している。
 それぞれの地域的な伝統の消滅は、次の二つの要因によって促進された。その一つは美術のフォルムやテクニックが、写真複製によって普遍化されたことである。今日ではひとりのアーチストが生み出したものは、もしそれがひとの興味を引くものであれば、その翌年には世界中で共有されるものとなる。もっともこの新しいフォルムやテクニックは、それが伝達される過程で、たぶんオリジナルな形がそこなわれることにはなるが――。フォルムやテクニックなどが共有されるものたということよりもさらに重要なのは、世界の大部分のひとたちの経験の本質がますます同一化したという事実である。これはたんにわれわれの食物や衣服や住宅や自動車や娯楽が、ますます似たものになったということだけでなく、生活のリズムや他人との関係、ひいてはその存在が顕著でなくなった神とわれわれ人間との関係などが、さらに似たものになったということである。このことは必ずしも悪いことではない――。これはわれわれが多様性を見出して、喜びを感じるための基準がそのために変わってきているということにすぎない。しかしここでの問題は、多様性が消滅するのか、それとも生き残るのかではなく、地域的なパターンに基づいた多様性がこれからも存在するかどうかなのだが、すでに現代の芸術表現の主要な分類は、地域的な分類ではないということは明らかだろう。
 この画一化の傾向は、とくに写真にあてはまると考えられるかもしれない。写真は共通語である、とこれまで(しばしば)いわれてきた。たしかにもっとも散文的で実利的な機能においては、写真は普遍的な意味をもつ。
しかし事実は、写真はたんに万国共通のテクニックにすぎないのである。写真を言葉としてあつかうのは、写真がもつ意味が(古典ギリシャ語や代数があらわす意味と違って)、容認できる範囲内での正確さて“他の言葉”に翻訳することが不可能であるという事実を無視することになる。
 ある写真がもつさまざまな意味の大部分は、多数のほかの、そしてそれに先行する写真――すなわち伝統――との関係のなかに存在している。写真の場合この伝統はあまりにも短く、複雑で混沌としている。また多くの急激な変化や明白な矛盾を含んている。したがって、もっとも優れた写真家たち――一般的にいって彼らは誰よりもこの伝統の内容に無感なのであるが――ですら、この伝統を直観的かつ衝動的に理解しているにすぎない。もっとも才能に恵まれ、また独創的な写真家たちが彼らの仕事で示しているように、写真は意思伝達のみを目的とした、いわばわれわれの時代の混成話ではない。写真はすべての芸術のなかでもっともアンダーグラウンド的であるかもしれないのである。したがって例外的な地域環境が、この写真というメディアの可能性について、特別な展望を生み出すことも、まだ可能なのである。
 これまでの記述で筆者は、近年際立って日本的な写真が生まれてきたという、ショッキングだが否定できない事実を説明しようと試みた。山岸章二とちがって、筆者はこの現象の経緯や意味について、専門的な知識はまったくもちあわせていない。したがって以下に並べることは、この現象に経緯を抱いている局外者の、仮説的なコメントとのみ受けとっていただきたい。
 ふり返ってみると、過去20年間に日本の写真に起こった激変は、次の三つの要因によるもののように思われる。まず第一は戦前の絵画主義的写真の伝統の明白な崩壊であり、第二はテクニックとしての写真に国民が魅力を感じたことであり、第二は日本人の生活が驚くべきスピードで変化したことである。
 形式と主題の双方において、戦前のシリアスなな写真真(審美的な志向をもってつくられた作品という意味である)は、伝統的な絵画の視点を模倣した。その主題は典型的に牧歌的であり、叙情的で、十分に通俗的なものであり、また論理的に受け入れられるものであった。見たところこれらの写真は整然としたシンブルなパターンで構成され、強い平板さを保ち、またディテールを隠すことを好んだ。そしてそれらは、その時代が直面した問題でさえも、自分からは十分に安全な距離を保った、サロン的、瞑想的なあいまいさで包み込まれてしまっていた。これらの写真は西欧の絵画主義的な真家たちの作品の模倣なのであろうが、皮肉なことに、彼らはその知識の大部分を間接的にだが、日本美術から学びとったのである。そして第二次大戦後のシリアスな写真家たちにとっては、こうした伝統が不適当であったことは明白だった。
 戦後の日本において写真熱が国民のあいだに広がったことは、まったく別個の問題である。つまりこのび写真熱は美術的な理論や態度とはまったく関係がなく、写真を撮るというプロセス自体に対する愛着と、そしてこのブロセスから生まれるほとんどすべてのものに対して魅力を感じるということに関係がありそうだ。現在一部の日本の写真家が、かつてアメリカで映画の新進スターたちに与えられたものと似た、強烈で、偶発的で、またうつろいやすい名声を与えられるということは、国民の写真熱と関係があるのかもしれない。この写真熱は明白な質的な基準をもたないので、きわめて寛容にどんなものでも受け入れる。
 過去四半世紀に、すべての国は大幅な変化を遂げた。しかし日本ほど急者に、かつ恐るべきスピードで変化した国はない。この変化の本質について、ここで詳しく述べる必要はないし、また筆者はこの変化の特質を論じる能力もない。ここで指摘しておくべさことは、日本の極端かつ急激な変化が、本書に収められた写真の中心をなしているということだけである、これらの作品が明白にしていることは、写真が時代のいちじるしい変化の意味を明確にするためには理想的なメディアだということである。なぜなら、写真は柔軟であり、直観的、肉筆的であり、迅速かつ安価、また過渡的であり、そしてある意味では正確――このある意味というのはまだ理解されてないのだが――だからである。
 最近の日本の写真の中心的な特質は、直接的な経験の描写へ向けられた関心である、これらのな写真の大部分にわれわれが感銘を受けるのは、経験についてのコメント、あるいは経験を、何かより安定して永続性のあるものへと再構築したものとしてではなく、(明らかに)を意図的に自らのコメントを欠いた、経験そのもののはっきりした代替物としてである。森山大道ほど視覚芸術においてオートマティックな描写の理想に近づいた作家の名を、ほかにあげることはむずかしい。そして小原健の高度にシステマティックでコンセプチュアルな作品ですら、意識的な批判や美的な解釈を強化しようとするより、むしろこれを除外しようと意図しているようにみえるのである。
 この新しい精神の誕生を示唆するものは、ヒロシマの生き残りの人々を写した、あの土門拳の圧倒的なシリーズ(1957年)に見られる。土門はこのシリーズを自制と明らかに公正な客観性とをもって制作したが、これらの自制と客観性は、彼のライフワークである日本の伝統芸術のクラシックなドキュメンテーションを貫くものと同じものである。しかしながら、最近の日本の写真界の中心的人物は、間違いなく、東松照明である。東松はその作品を通じて、日本のより若い写真家たちが、自らの存在をはかる原標とする観念、作風、方法論を確立した。東松の初期の作品は、従来のフォトジャーナリズムの枠組のなかで生まれたものであった。これらの作品が記録した時の流れの一刻一刻は、より大きな一貫したストーリーの一部分として、特別な説明的意味を示唆するものとして選択され、示されたものであった、東松自身が成熟するにつれて、彼の写真が示す内容は伝統的な“報道価値”としての意義を主張することが少なくなっていった。彼の写真の表面的なテーマはより日常的となり、またしばしば平凡なものとなったが、写真自体は、生活の体験そのものに対する東松の直観的な反応をよりシャープに、さらに豊かに記録するようになった。東松がジャーナリスティックなイラストレーションという観念を徐々に拒否していった同じ時期に、世界中の才能あるら写真家の精神のなかでもまた同様な変化が並行して起こったのである。しかしながら、東松の作品がもつきわめて個性的な性格と意味は、拒否というような否定的なことばでは説明できない。それは伝統的なジャーナリズムを拒否するのではなく、東松の写真家としての存在証明を規定する、より大きく困難な問題を彼が受け入れたということである。そしていまにして思えば、この問題とはたぶん、日本固有の感受性の発見と、その再表現であった。
 東松の作品に存在するニヒリズムのかげりは、森山の作品において大胆に、また効果的に明示された。たしかに東松において直観であったものが、森山においては神秘主義的といえるまでの反啓蒙主義になり、また東松において悲劇感であったものが、森山においては暗いもの、恐ろしいものに対する神秘的な好みとなっている。
 森山の作品のもつ力と説得性そのものが、彼よりもさらに若い日本の写真家たちには、彼の作品に反発する反応を起こさせ、バランスとコントロールをふたたび取り戻しうる表現と、知性の抑制力への呼びかけを試みさせることになった、といえるかもしれない。秋山亮二、小原健、田村シゲル、それに十文字美信といった写真家の作品を見ると、既知や客観性や内省が、写真家の自らの役割の規定のなかにふたたび入ってきたように思えるのである。
 最近の日本の写真が最終的にどういう効果をもたらすかについては、それぞれの地域的な表現の継続的な発展という点からも、また世界の写真界に与える影響という点からも、いまは予測することができない。しかし、他の国の写真家たちが、日本の写真から彼らにとってもっとも価値のあるものをとり入れ、そしてこれを自らが用いることができるように変える、ということは考えられる。そしてわれわれは、少なくとも芸術の分野においては、日本の写真家たちが、世界はひとつだけではないのだという、明るい可能性を追求し続けてくれることを期待しうるのである。


山岸章二
日本の写真家たちの場合は、写真を密度の高い一枚の印画として完成させることへの関心はあまり強くない。不得手だともいえる。それは、その伝統やコレクションの設備のある美術館をもたなかったことにもよる。また皮肉なことたが、まだそれが達成されていないにもかかわらず、いまではむしろ、そこに陥りたくないという意識も一部にある。つまり保守的な格式や既存の価値に接近することに疑いをもつ新しい世代の出現は、たとえば美術館や印画の質へのこだわりが、写真表現のアクチュアリティーを拘束するという考えを生みだしている。
 仕事をまとめるには、テーマに沿ったイメージをいくつも重層、複合させた一冊の本という形をとる場合が多い。だから前後を形成している他の写真と切り離し、またまず印刷のためのものとしてあった写真を、美術館の壁に並べて独育鑑賞するのは、意図と方法がそぐわないばかりか、作者が創りあげた価値そのものを見失わせる危険がある
 またひと口に日本の写真といっても広範、多様、しかも流動的で、限られたスペースでその全体像を、普遍的にダイジェストとして組み立てることは不可能に近い。もし仮にそんなものが出来たとしても、現代の国際的な文化や芸術の交流の場において、網羅的、解説的な展示がもつ意義はきわめて薄い。
 それに写真が国際的にユニバーサルな言語だという手ばなしの楽観は、すでに伝説になってしまった。
 この写真展の準備段階の途中で、私を躊躇させる以上のようないくつかの問題があった、なにしろこの企画は海外における、ある規模をもった、日本の写真家たちの仕事の紹介としては初めてのことなのだから。そしてその逡巡を実行に踏み切らせてくれたのは、ジョン・シャーカフスキーの次の言葉であった。
「この写真展は、まず参加してもらうな写真家に対して、われわれはあなたの仕事の意義を、写真とは何か、という命題との関連において、こう考えた、と告げるものにしょう」
 日本の写真の歴史的な系譜や分類をして、安易な理解に導くのでなく、古くて新しいその命題に一歩近づくための、素材的な役割を果たすという合意点に立って、「ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィー」の作品は選出された。展示は参加した15人の写真家それぞれによって創りだされた、個々の独自な価値基準そのものを、連鎖個展という形式で示すことに主眼をおいて構成した。
 新しい写真の概念が、対象をいかに写真家の主体性によって表現するか、という美意識の問題を離れて、写真家と対象との直接的な関わり合い、さらには写真家自身の存在証明の表出として認識されつつあることはいうまでもない。これらの写真が結果としてシャーカフスキーのいう「日本的な写真の出現」を示す例証になったとしても、私としては欧米と日本という対立した関係で、日本の写真の様式の特異性を提出したつもりはない。あくまでも同時代的な関心と自由な発想のうえに立った、一群の優れた写真家たちの仕事に即して、現代の写真がもつ共通の意義をさぐりだす、ふだんの作業の一環だった。
 この写真展の内容は、中核をしめている東松照明の作品によって象徴されている。それは若き日の東松をして「占領――とつぜん与えられた奇妙な現実」と呼ばせた、連合軍の占領にはじまった第二次大戦以後約30年間の日本の歩みであり、東松という多感なひとりの人間の関心の転跡でもある。これらの写真はすでに彼の6冊の写真集に収録されているが、それらが単にその間の日本の状況をカメラの対象物として記録したものでないことは、明らかである、ひとつの時代における経験の具体的な内容は、その経験を共有して生きた人々にしか記憶されないが、優れた表現者によって抽象化された新たな価値体系は、そうした限定を越えて、自由な伝達の可能性を開いているはずである。日本の伝統美への再認識(土門拳、石元泰博)、大阪に青春を捧げた若者たちへの鎖現(川田喜久治)、欧米文化史への属目(IKKO)、新たな性への発戦(細江英公)をここでは前半部にとりあげている。それらに続く世代はコンテンポラリーな日常性追求への検索を試みるいっぽう、家族制度や生活環境の荒廃という現実のなかで、日本固有の信仰、土俗性、エロチシズムというような、原点回帰的な主題のもとに、よりデモーニッシュな世界に目を向けている(深瀬昌久、内藤正敏、一村哲也、土田ヒロミ)。また森山大道の精力的な創作活動は、感傷的な自家癒着と荒々しい自己破壊の葛藤に、あえてち向かおうとしているようだ。展示が明るい画面に転換する秋山亮二の仕事には、新しい世代の楽天性を、そしてそれに続く若者たちの仕事(小原健、田村シゲル、十文字美信)は、すでに写真が個性や自我の表現であるまえに、それぞれの日常性のなかで、誰もが共有できる意識の形でもあることを明瞭に示している。
 この時期にわれわれは現代写真の核になる部分について、その多くをアメリカから帰った石元泰博に学んだ。いまにして思えば、その思想や技術は余人の手からでも習得できたかもしれないが、現代の写真が目ざす理想には、石元なしては近づけなかったであろうことをここに明記したい。
 ともあれ、西欧にその源泉をもつ他の表現ジャンルと事情を異にして、発明から時を経ずして、この国に渡来した写真術の種子が、その固有の文化的土壌に根をおろし、いま 130年を経過してここに異花受粉的結実をみせている。その果実の中から普遍性という種子をさがしだしてみようというのが、私たち二人の関心であったのだ。
〈/転載〉
2024/10/08 14:28

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