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「ふつうの暮らし」を美学する家から考える「日常美学」入門の4章の読書ノート

前回に引き続き、青田麻未著『「ふつうの暮らし」を美学するの読書ノート』4章:親しみと新奇さ――地元を事例として の読書ノートを、毎週火曜日のゼミに向けて、読書ノートとしてアップする。
ここは、都市風景写真家としての一番興味がある章だった。
メディア論としてもおもしろく読めると思う。

4章:親しみと新奇さ――地元を事例として
前節から言及していた「親しみ」と「新奇さ」は、日常生活のなかでごくふつうに使うことばでもあるでしょう。こうしたことばが指し示す感情について美学的に考え直し、日常美学を論じるうえでの概念として練り直したのが、フィンランドの美学者アルト・ハアパラです。p191

先取りしてまとめるならば、親しみとは、日常生活を送る場所に対して覚える感情です。日常の舞台に対して、私たちはいちいち激しく感動するということはないでしょう。しかし、自分の住む街や家にいると、なんだかほっとするような感覚を覚えることがあります。ハアパラはこれを親しみと呼び、これもまた「美的な」感情なのだと主張するのです。p191

しかしハアパラは、場所ということばには、時にそれ以上の含みがあるのだと指摘します。場所はたんなる空間であるだけではなく、私たちの生活のなかで独特の意味を帯びた対象になりうるのです。p192

こう考えてみると、「場所」とはたんに空間を指すのではなく、その空間で人々(あるいはそのほかの要素)が過ごしてきた来歴が積み重なっているものだと言えます。つまり、空間と私たちとの関係性を抜きにして、場所を十分に理解するのは難しいのだということになります。p193

新奇さ「場所は私たちとの関係性を抜きにしては語れない」ということからさらに進んで考えてみると、この「私たち」という括りの粗さに気づきます。p194

今ここで、その場所に立っている「私」の属性によって、その場所が持つ意味もまた変わるのです。このようにハアパラは、文化や歴史といった大きな物事を介してというよりも、私たち個々人がその空間とどのような関係にあるかによっても、異なる場所が経験されるということを掘り下げて考えます。そこで彼は、「新奇さ」と「親しみ」という概念に注目します。p194

アパラによれば、私たちは土地を「解釈」することを通じて、新奇さを感じることから、むしろ親しみを感じるほうへと徐々に移行していくのです。p196

この場合の解釈は〈ある場所と自分との関係を、ていねいに築いていくこと〉を意味しています。最初から想定されている正解はありません。自分がその場所で時間を過ごすことを通じて、自分なりの意味をその環境のうちに見出していくことを解釈と呼ぶのです。p196

ハアパラは、新奇なものを親しみあるものに変換することを、ある場所を「家化」するととなのだと述べています。p197

慣れ親しんだ場所は、生活の背景になります。だからといって、そこが自分にとってどうでもいい場所になったのではなく、むしろ自分の日常の欠かせない構成要素になっているーーこのような場所に私たちは愛着を感じるのであり、親しみの感情が現れてくるのです。p197-198

新奇なものは、私たちの日常からは距離のある、馴染みのないものです。そのため、私たちの諸感覚を強く刺激します。美的経験とは、まずは感覚のはたらきを出発点とするものだとされる以上、こうした新奇なものとの出会いが典型例として考えられるのは自然なことのように思われます。それに対して、ハアパラが親しみを感じることも美的経験の一種であると提示したことは、美学においてはかなり冒険的なことだと言えるのです。親しみを感じる場所には、私たちにとって目新しいもの、驚きの要素は特にありません。それゆえに、感覚が強く刺されるということもありません。p199

ハアパラは、家の周辺環境に対して「アットホーム」であるという感覚を持てることが、安全な環境でルーティーンを遂行することに伴う快につながるのだと主張します。p200

私たちはいちいち、通勤ルートにあるもの一つ一つを感受し、新鮮な驚きを感じるようなことはしません。ですがそれゆえにこそ、私たちはその場所にいるときに家にいるような感じを覚えることができ、その安心感から心地よさ、すなわちある種の快を覚えるのです。p200

ここまで読んできて、親しみは「ノスタルジー」のようなものに近いのではないかと考えた人もいるかもしれません。しかし、ノスタルジーが故郷、すなわち一度離れてしまった場所に対して主に感じられる感情であるのに対して、親しみは今まさに日常生活を送っている場所に対する感情であるという点が、大きく異なっています。そして、このちがいはとても重要です。つまり、ノスタルジーは、かつて身近だったが今は距離があるものに対する感情であるのに対して、親しみは今も身近なものに感じられているのです。p201

ハアパラは、親しみの感情のように、日常を支えている快に注目することで、「生き方の美学」あるいは「生き方の技術」を構築することができると主張します。p202

さらにハアパラは、特に都市という場所に注目して、親しみのなかに残る新奇さについて論じるなかで、都市は「意味の過剰」という特徴を持つ場所であると主張します。ハアパラのいう意味の過剰とは、一人の人間が経験しきることができないほどさまざまなものを都市が供給しているということを意味します。p207

ある建築物が、その周辺に暮らす人々の日常生活のルーティーンを支えつつも、しかしふとしたときにその魅力のために私たちを日常から引き剥がすこともできるとき、その建築物は二重の機能を持っていると、ハアパラは考えます。p209-210

こうした、新奇さを見つけるための一つめの工夫は、私たち生活者が行うというよりも、建築家や都市計画家のような人々がすべき工夫でしょう。街をつくるプロである人々は、そこで暮らす人々の生活を豊かにするために、この「建築の二重の機能」を意識しつつ街やその構成要素のデザインを考えていくとよいのかもしれません。p212

次にみるのは、同じ街にいても、移動手段(=モビリティ)を変えることで新奇さを発見する工夫です。

アメリカの美学者ジョナサン・マスキットは、モビリティごとに異なる美的経験について議論しています。彼は特に、街のなかに新しいなにかを発見しやすいかどうかという観点から、さまさまなモビリティを比較検討しています。その際に、彼が軸とするのは「速度」「周囲の探索の可能性」「中断のしやすさ」という三つの観点です。P212-213

最後に紹介する工夫は、現代のテクノロジーを利用したものです。フィンランドの美学者サンナ・レーティネンとヴェサ・ヴィハンニンョキは、テクノロジーが親しみある環境をちがったものに見せる可能性について検討しています。

二人が取り上げるのは、GPSなどの位置情報システムを用いたアプリケーション(以下アプリ)です。こうしたアプリが与えてくれる情報は、自分が今いる環境に異なるレイヤーを重ねてくれます。現実の土地を第一レイヤーとしつつ、そのうえに、アプリが示す第二レイヤーが重ねられるのです。p215-216

一定期間を同じ場所で暮らすことで、私たちはその場所に親しみを感じるようになりますが、そこで一切の刺激、すなわち新奇さを発見することがなければ、その親しみは退屈へと転じ、その場所で暮らすこと自体をネガティブなことに感じるようになってしまうかもしれません。p217-p219

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