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『「ふつうの暮らし」を美学する家から考える「日常美学」入門』の前書きと序章の読書ノート

ご無沙汰しています。

青田麻未著『「ふつうの暮らし」を美学するの読書ノート』の読書ノートを、毎週火曜日のゼミに向けてアップする。
ゼミということで、いわゆる“読書会”というほどかっちりしていないので、概説と写真家として興味あるポイントだけピックアップしようと考えてる。
この本は新書なのだが、以前から提唱しているように、新書というのは全部読まなくてもいい。
とりあえず序章だけ読めば、大体の内容がわかる。
この読書ノートも、序章だけまとめる。

・まえがき
本書を読み進めていただければわかるとおり、日常美学はまさに、私たちのなんでもない日常生活のなかで感性が果たしている役割を明らかにすることを目指す学問分野です。p4

・序章:日常美学とはなにか
日常美学は、美学という学問の一分野です。そして日常美学は、二〇〇〇年代に入ってから活発に議論されるようになった、美学のなかでは比較的新しい分野です。p16

美学という学問の名前は、西洋において、十八世紀に誕生しました。p16

このことばはその原義に立ち返ると、「感性の学」を意味します。すなわち、なにかの事物や出来事に出会うとき、私たちの感性はどのようにはたらいているのかを明らかにするのが美学の目的だということになります。美学は哲学の一種なので、実験やアンケート調査を行うという手法ではなく、抽象的に思考することを通じてこの目的を達成しようとします。p17

では、なぜ、十八世紀になってから美学が必要とされたのでしょうか。それには、当時の西洋における「芸術の誕生」が関係しています。p21

そのため、美学では長い間、芸術作品がもたらす美の経験を典型例とした考察が進められてきました。西洋近代的な芸術作品は、日常的な実践から切り離された特別なものと考えられています。そのため、美を感じることもまた日常的な世界から切り離されたものだと特徴づけられてきました。p23

美学の成立における立役者の一人である十八世紀の哲学者イマヌエル・カント(一七二四~一八〇四年)は、「無関心性」という概念でこのことを説明します。何かの役に立つかどうかという評価から離れて、対象それ自体を純粋に鑑賞すること。その純粋な鑑賞自体を目的として、楽しむこと。これが美を感じるために必須の条件の一つと考えられました(本書第一章で触れるように、例外はあるのですが)。p24

しかし、先に説明したように、もし美学が原義的には感性の学であるというところに立ち返れば、美や芸術を直接には対象にしない美学というものも、可能なのではないでしょうか。日常美学とは、まさにこのように考えることで成立した分野なのです。p25

また美という感じ方にこだわる必要もない、と考えることもできます。そのように考える根拠の一つとして、まず、芸術そのものが現代においては大きく変化しており、美はその必須の要素ではなくなっているという点を挙げます。p26

また、美にこだわらなくてもいいと考える理由として、「美的なもの」の広がりを考えることもできます。p28

しかし、美の重要な特徴の一つと言えるものに、「調和」があります。美とは、たとえ多様な要素が含まれていても、それらが一つにまとまっている感じ、を指すことばだとひとまず言えましょう。しかし、調和は感じられないけれども、感性に訴えかけてくるものがあります。第二章で詳しくみていきますが、近代美学では「崇高」や「ピクチャレスク」といったものが「美」以外の「美的範疇」(範疇はカテゴリーの意味)として取り上げられ、美以外のことばで言い表されるべき感性のはたらきについて、議論されていました。現代になると、「美的性質」という考え方が優勢になり、ほとんど無際限に私たちの感じ方を表すことばがあるとされ、美のみにこだわらない傾向はますます強くなっていると言えるでしょう。p28-29

歴史的にみて、美が美学の中心的話題だったことは間違いありませんが、近年ではもっとさまさまな美的性質が美学の話題となっています。「わび」や「さび」などある文化に固有の美的性質もありますし、「かわいい」や「かっこいい」など、私たちにとって身近なものも美的性質の代表です。p30

なお、以下では「美的」とつくさまざまな用語が出てきます。たとえば「美的経験」と言ったら、これは「感性的経験」と言い換えて理解していただいて構いません。つまり、主に感性がはたらくことで可能になる経験を、美的経験と呼んでいるのです。p30

日常美学は二〇〇〇年代に入ってからさかんに議論されるようになりました。二〇〇五年に、日常美学として初めての論文集が出版されています。p32

そして二〇〇七年には、同じ『日常美学』というタイトルを冠した二冊の本が出版されます。著者はそれぞれ、日本出身でアメリカにて活躍している美学者ユリコ・サイトウと、メキシコの美学者カチャ・マンドキです。p32

日常美学の誕生に至る背景には、一九七〇年前後より「環境美学」と呼ばれる分野が発展を続けてきたことがあります。環境美学は、深刻化する環境問題に直面する現代の視点から、自然の美的鑑賞についてもう一度真剣に議論する必要性が感じられたことに起因し、誕生しました。p33

このような状況に対して、環境美学はまず、人間の手が入っていない自然の美的鑑賞のありかたについて議論するところから、現代の自然美論をスタートさせていきました。p33

そこで一九九〇年代頃から、自然と人工の要素を併せ持つ複合的な環境も環境美学の議論対象として組み込まれていくようになります。この動きによって、私たちの日常生活へと関心が向けられていきます。p33-34

ひとたび日常に注意を向けると、そこにはたくさんの、あまりにたくさんの美学の主題が浮かび上がってきます。アメリカの美学者でアーティストでもあるケヴィン・メルキオネは、日常美学を美学における「第三のかご」とさえ形容します。芸術ではないから従来の美学の主題ではない、自然ではないから環境美学の主題でもない、そうしたものがじゃんじゃん放り込まれてくるかご。それは日常美学の懐の広さでもあり、またその独立した領域としての自律性を脅かす特徴とも捉えられるでしょう。p34-35

私たちの日常はあまりに多様なので、日常美学において議論すべき経験、すなわち私たちの日常生活のなかでの典型的な美的経験とはどのようなものか、ということが問題になってきます。
この点をめぐって、日常美学には大きく分けて、二つの立場があるとされています。
一つめの立場が、日常のなかの平凡な側面に注意を向けるべきだという立場です。p36

これに対して、日常のなかの特別なものに注目するべきだという立場があります。この立場はそもそも、ルーティーンベースの安定した日常に対する感情は果たして本当に「美的」と呼ぶことが妥当なのかを疑問視します。p37

とはいえ、いずれの立場を取るにせよ、日常美学に共通する理論上のスタンスとして、「世界制作への参加」という側面を捉えようとすることが挙げられると思われます。p38

美学、というとどうしても、美に象徴されるような特別で素晴らしいものを扱っていると捉えられがちではないかと思います。ですが、日常美学においてはネガティブな経験における感性のはたらきに注目することも多いです。このことを指して、「否定美学(negative aesthetics)」という言い方もされます。p48-49

2024/10/24 0:54

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