感覚的経験的区別の間に過度な分離と結合の往復を引き起こして、マンダラ状の四項関係を描く -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(73_『神話論理3 食卓作法の起源』-24,M444 天体の妻たち)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第73回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第四部「お手本のような少女たち」の「IIヤマアラシの教え」を読みます。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
はじめに
レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。
神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつ、過度に分離しすぎない、安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。
そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。
ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。
この世界は、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
『神話論理3 食卓作法の起源』、278ページから「M444 オジブワ 天体の妻たち」をみてみよう。解説のためぶつ切りにして読んでみる。
親子四人の、凝集からの分離
冒頭、「四」人の神話的人物が登場する。
この四人は、夫婦とその子供たちである。
夫/婦、親/子、姉/妹(兄/弟)という関係にある二者は、別々に異なるはっきりと区別される二人でありながら、しかし未知の他人と比べれば、はるかに「同じーひとつの」存在である。
β四項
神話の冒頭では、「四」が、分かれつつも「一」に繋がっている、四が一に凝集している。図1で言えば、中心に四つの「β」が凝集している様を思い描いていただけるとよい。
この凝集から転じて、娘たちが「遠くへ」旅立っていく。
つまり、β父、β母、β姉娘、β妹娘の四者が一点に集まっていたところから、父母はセットになったまま、姉妹もセットになったまま、この二つのセット同士が分離していくのである。
ββ父母 <<<< / >>>> ββ姉妹
凝集すなわち結合していたところから転じての、分離。
結合 / 分離
この二項対立の両極の間を、近づけたり、引き離したり、結合したり分離したりするのが神話論理のマンダラを描くような動き方の特長である。
*
姉妹それぞれの結婚からの、姉妹の分離
ここから、姉と妹の二者が、分離してみたり結合してみたり、また分離してみたり、という分離と結合を両極とする振幅を描くような脈動をする。
まず姉妹は、太陽と月という、互いに真逆の別々の男と結婚する。
天/地
この対立の一方の極から他方の極へと移動することで、β姉妹とβ父母たちとの分離は最大スケールの振幅を描く。
*
さらに、二人一緒だった姉妹が、二つの別々の夫婦の妻の位置に分離する。
姉妹としては分離して、代わりに妻として夫と結合する。
こちらで分離し、あちらで結合する。
第一の軸上で分離し、第二の軸上で結合する。
四極をきりひらくように生地をこねる動きである。
+
結合から分離へ、分離から結合へ、そしてまた結合から分離へ
さらに、この結婚は、老/若という、経験的に鋭く対立する、いわば過度に分離した両極を短絡して結合するものであった。この無理のある結合から、バネが反発するように、分離が生じる。姉妹はそれぞれの夫のもとを離れて、地上に戻ろうとする。
つい先ほど、最大の距離に分離された天/地のあいだが、今度はまた結合へと転じる。分離したとおもったら結合し、結合したとおもったら分離する。これが神話のβ四項の脈動である。
姉妹は綱で釣られた籠にのって天/地の間を移動する。
籠は両義的媒介項βとしてしばしば用いられるものである。
また籠を釣る縄や鉤のようなものも両義的媒介項βになりうる。
しかも、この籠は地上に到達することなく、高い木のてっぺんにひっかかって止まってしまう。これがまさにβ的である。安全な乗り物として、天地をスムーズに直結してしまったのでは、ただ分離を結合するだけで、脈動感に欠ける。分離を結合しようとして、しかしもうちょっとで結合するというところで分離したままにする、というくらいがβらしくて良い。
天
吊り下げられた籠===樹木
地
吊り下げられた籠と、高い木が、それぞれ天/地の二極の間を分けつつ繋ぎ、繋ぎつつ分ける、分離しつつ結合し結合しつつ分離する項としてペアになっている。籠が木のてっぺんに結合しているという、過度な結合の感じを強調する話になっているところがおもしろい。β籠とβ樹木が過度に結合したまま、動けなくなってしまうのである。
記号と意味内容の分離と結合が不安定になる
なお、ここでもう少しで地上に降りられるところで籠を吊り下げていた綱が切れてしまったのは、姉妹が言いつけを守らなかったからである。みるな、といわれているのに、みてしまう。鶴の恩返しである。
言葉で言われたことと、実際に行われたことが、逆になる。
これを記号と意味内容の”分離”、といってもよい。
通常、「みるな」という記号のもとで期待される意味内容は「みない」である。
しかしこの神話では「みるな」という記号のもとで「みるなーではない」、みるなの逆、みるということがなされ、これが意味内容の位置に収まる。
記号とその意味内容、通常はぴったりと結合しているものが、分離して、あべこべになる。結合しているはずのところが分離する。綱(記号?)と籠(意味内容?)が結合しているべきなのに分離する。
この結合すべきところの分離が、籠と樹上という二つのβの間の結合に転じる。あちらで分離すると、こちらで結合する、ということである。
こうして姉妹は引き続き籠と樹上、ふたつのβが過度に結合したままの中間的であいまいな天/地の間に宙ぶらりんになる。
そして引き続き、記号と意味内容の分離と結合の妙が続く。
姉妹はグズリと結婚の約束をする。言葉で約束、契約するのである。
「結婚します」という記号の意味内容は「結婚する」であるはずだ。
しかし、これは嘘なのであった。
姉妹はグズリに対して嘘を重ねる(樹上に忘れ物をした(忘れ物をしていないのに))ことで、結婚という脈絡でのグズリとの分離に成功する。
しかし、グズリは怒り、逃げる姉妹に追いつき、襲撃する。
そして姉妹の一方、姉の方がグズリにやられてしまうが、妹が反撃してグズリを倒し、姉を復活させる。
逃げる(分離しようとする)/追いかける(結合しようとする)
勝ち/負け
生/死
これらの対立二極のあいだでの急転回がみられる。
**
こちらと結婚したはずが、あちらと結婚している
このあともこの神話では、言葉をめぐる嘘と本当、意味するもの(記号)と意味されること(意味内容)とのズレが、分離と結合とを両極とする振幅を描く動きを発生させていく。
いくつもの「嘘」が重ねれていく。
まず「水潜り」は、正体を隠して「ビーズ飾り」のフリをする。
レヴィ=ストロース氏によれば、この「水潜り」とはカイツブリであり、「ビーズ飾り」はアビのことであるという。
次に「水潜り」は、狩猟対象動物たちは自分の言いなりだ、と嘘をつく。
つまり言いなりに動物を呼び寄せて肉を提供させることができる、という嘘である。狩猟の能力が極めて高い、優れた男性である、という「嘘」をついているのである。
この嘘に騙されて、姉妹と水潜りの結婚=結合に至る。
ところが、水潜りの村に着いて、この嘘はすぐにバレる。
そうして姉妹は、水潜りとは分離し、「ほんものの」ビーズ飾りと結婚する。
結合したところがすぐに分離し、また別のところで結合する。
しかも、このビーズ飾りとの結婚も、一晩を過ごすか過ごさないかというところでビーズ飾りが死んでしまって終わる。また分離するのである。
あちらで結合したとおもったら分離して、こちらで結合し、そしてすぐに分離する。複数の軸上で、最大の距離を描く引き離し=分離と、中心の一点に凝集する結合とが、激しく入れ替わる。大忙しである。
*
さて、この女性に大人気の「ビーズ飾り」と不人気の「水潜り」。
この二人は、”同じ”兄弟なのに、モテる/モテない、という軸においては真逆に対立するのである。同じ兄弟なのに、真逆。同じなのに異なる、異なるのに同じ。非同非異の二項はβ脈動を引き起こす。
姉妹妻を奪われたことに怒り狂った水潜りは、とうとう兄を死においやってしまう。しかもそのあとも「嘘」を続ける。さも兄の死を悲しんでいるように、自分に短刀を突き刺す芝居まで演じるのである。
嘘の終わり、大洪水、世界のはじまり
しかも、この嘘は、水潜り自身によってバラされる。
嘘をつき通そうとする拘りすらない。清々しいくらいである。
そうして水潜りは自分たちの村から「分離」しようと湖水の上を移動する。村人たちは水潜りを追いかけ、捕まえようと、つまり「結合」しようと、湖の水をヒルに吸わせてしまう。
ヒルが容器で、中身が水である。
しかしすかさず、水潜りは反撃し、ヒルを切り裂いて水を溢れさせる。容器の”中”に結合されたと思われた水が、すぐに転じて容器の”外”へと分離していく。
その大洪水で、鳥=人間、鳥だか人間だか定かでない、動物だか人間だか不可得なこの村の人々は、滅んでしまう。
そして、神話の語りはここで終わる。
おそらく、この大洪水の後に、今日の現実の現世が、現世を安定的に分別する四項関係が、分離されつつ結合し、定まるのであろう。
・・・分離→結合→分離→結合→分離→結合・・・
二極間に最大の距離を開く「分離」と、二極間の距離を最小に(0に)する「結合」とのあいだでの行ったり来たりの繰り返し。これは図1で言えば、四つのβ項が、中央に凝集したと思えば、ある一つの軸上で長く伸びつつその軸と直交する軸上では一点に潰れ、また別の軸上で長く伸びつつその軸と直交する軸上では一点に潰れる。そのようなパイ生地を伸ばすような動きを繰り返しながら、四極を際立たせるように四角形を広げていく動きがある。
こうして四角形を描いたβ四項たちの隙間に、βとβのあいだに、それぞれ四つのΔが収まる位置が生じる。
β項たちは天地の間で宙吊りになったり、姉妹セットで一人の夫と結婚したり、カヌーの前後に止まりながら移動したりする者たちであり、鳥でありながら人間でもあったり、兄弟のどちらなのかわからなくなるような嘘をついたりする者であり、つまりそれ自身が経験的感覚的には対立するはずの二極を一点に凝縮したような、経験的感覚的な対立二極のどちらでもあってどちらでもない、どちらか不可得な存在である。
そのような存在である姉妹と兄弟の四者が、分離したり結合したり、集まったり、分かれたり、を繰り返し、美しい波紋状の「四」分離を際立たせていくのがこの神話である。
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現世の定まった存在者Δの起源の、手前
さて、この神話がおもしろいのは、「大洪水」で話が終わっているところである。いや、もしかすると、本当はその後に続きがあるのに、たまたま記録されなかった、ということかもしれない。しかし、仮にそうだったとしても「大洪水」で語りを閉じる、語りが閉じられた、という点はおもしろい。
神話はしばしば、諸々の存在者の起源を語ろうとする。
現世に存在するあれこれの存在者は、図1でいえばΔである。Δの位置に浮かび上がりつつ、浮かび上がった影のようなものだということを隠して、さもどこからも浮かび上がってなど来ておらず、初めからそれ自体として存在してございますよ、という顔をしている。それがΔ、現世のあれこれである。たとえば「私」などというのも、経験的感覚的世の中的にはそういうΔである。
神話は、そういうそれ自体として=即自的に存在するかのような顔をしているΔたちが、”もともとなかったところからあるようになる”プロセスを、β四項の分離と結合の脈動からの、曼荼羅状の八項関係の発生という形でモデル化する。そうして神話の語りの最後に至り「こうして、Δが定まりました、めでたしめでたし」と言う。これが定番である。
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ところが、M444 「オジブワ 天体の妻たち」では、この「Δが定まりました」のくだりが省かれている。
他の神話の場合「大洪水」は分離と結合の両極で激しく脈動するβ項目たちが動き回って描いたパターン(地形とか、地図、図に対する地、とでもいおうか)だけを残して、当の動き回るβたち、現世にはありえないような、βたちを、洗い流してしまう。図1のようなパターンを描き出していた「動き」が流れ去って消え、図1が静止したパターンとして、波が砂に残した痕跡のように、残る。この静止したパターンの中で、Δの収まる位置が、つまりΔが存在するということが、可能になる。そうして大洪水が去った後に、Δ1が現れ、Δ2が出てきて、Δ3も作られ、Δ4が据え付けられました、こうして今日私たち人類が知っているこの世界が出来上がったのです、ということになる。
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シンプル・バージョン
例えば、『神話論理3 食卓作法の起源』の40ページ掲載された「M362マクシ オリオン座三星、金星およびシリウス星の起源」という神話では、次のような具合に四つの現世的定常的存在者Δが分節される。
オオナマズ、オリオン三星、金星、シリウス星の四つがΔである。
この四つのΔの、天/地、および天上での位置関係の配置が、四つの角をなす四角形を描いている。この四つのΔがはっきりと分かれながらバラバラにならず安定した四項関係を維持できるようになっているのは、β四つが過度に結合したり過度に分離したり、過度な分離と過度な結合の両極の間で激しく振幅を描いて動き回ることによる。この振幅を描く動きが複数重なりあい、共鳴するところから、リサージュ図形のような具合にして、図1の形状が浮かび上がる。そこに四つのΔが安定的に占めうるポジションが、浮かび上がってくる。
上の神話での、美/醜の対立も、兄の弟に対する憎悪も、木の下から上へ上から下への移動、そして生/死の転換、身が半分にされること、半身が地上から水中に移動することなどは、これはいずれもβ四項が一点に収縮したり、ある方向に長く引き伸ばされたり、その方向とは直交する方向にこれまた長く引き伸ばされたり、四角を描くように引き伸ばされたりする、βたちが分離と結合を両極として振れ幅を描く動きである。ちなみに、この動き、振幅を描く動きを担うβ項は、三人の兄弟とそのうちの一人の妻の四者である。これはM444 「オジブワ 天体の妻たち」でいえば、姉妹と兄弟がそれぞれ非同非異で分離したり結合したり、あちらで分離したとおもえばこちらで結合し、そうかとおもえばこちらで分離し、あちらで結合する動きと等価なのである。
そしてこの、「四」浮かび上がらせるβの脈動から、四つのΔが安定的に収まる位置が、椅子取りゲームの椅子にあたるものが、出現してくる。
このくだりを、神話M444は語らないのである。
まるで、β四項を区切り出す脈動こそがメインで、締めのパターンの残存とΔの配置はおまけであり、前者の方こそ見てほしい、と言わんばかりである。
感覚的経験的区別の間に過度な分離と結合の往復を引き起こして、マンダラ状の四項関係を描く
神話が何を言っているか意味不明になるのは、人類がこのβ脈動を直接言語で表現することができないことに由来する。いや、直接表現することはできているのかもしれないが、β脈動と共振する”読み”が、なかなかできない、難しいのである。たとえば、前掲のM362のようは恐ろしい話になると「兄弟が憎しみあうなんて」「殺してしまうなんて」「切断してしまうなんて」とんでもない酷い話である!という感想を持たざるを得ない。神話はなんと不謹慎で、倫理に反するものなのだろう!と。
しかし、よく考えてみると、星に変身したり、魚に変身したりする体を持っている時点で、「この人たち」は通常の人間とは違う。まさに神話的、苛烈な神々のような存在である。
神話は、分離と結合の分離と結合の動きから生じるパターンを、言語の線形配列上にシミュレートするために、感覚的経験的にわかりやすい、誰が聞いても「あーっ、なるほど!それはひどい分離と結合の間の往復だわ」と思えるような動き方をする二項対立関係を持ち出したいのである。
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β脈動は、中沢新一氏が『精神の考古学』で書かれている「いちどきにすべてを表現できる言葉」を、いちどきにすべてを表現できない言葉でもって、エミュレート(機能模倣)するものである。
ニルヴァーナの原空間の言葉は、”分けるでもなく分けないでもない”渦の共鳴と共鳴するモードに励起された言葉を、「いちどきにすべてを表現できる言葉」である。そのような言葉を、人類は口から発したり、文字に記したりすることはできない。なぜなら声も、文字も、同じ空間に複数を重ねることは通常の感覚においてはできないからである。
しかし、人類はそういう、「いちどきにすべてを表現できる言葉」から隔絶されているわけでもない。うまい具合に工夫をすることで、日常の、一つ一つの分節された要素Δを線形に配列していくΔ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δという形式を用いつつ、その”線”に、脈動するβたちの「いちどきにすべてを表現できる言葉」たちを、次元を減らして写像することもできる。
そこに姿を現すのは、”線形に並んでいるようで並んでいない言葉”としての詩的言語である。
詩的言語は中沢氏のいう「喩」の機能を使って、つまり異なる二つの事柄を、異なったまま同じこととして置き換え可能にする。すなわち「私は他者である」「男は女である」「生は死である」「愛は憎悪である」「光は闇である」といったことをいう。
これらは神話と同じである。つまり上の神話の姉妹と兄弟のように、異なるが同じ、同じだが異なる、非同非異の二項関係を作り出すのが、神話であり、詩のことばであり、そしてマンダラを描くことなのである。
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意味がわからない?「わかる」の発生ポイントへ
神話が一見、意味不明であるという話に戻ろう。
神話は、一見すると「姉」とか「妹」とか、通常日常、私たちが現世でよく知っているあれこれの呼び名とまったく同じ言葉でもって語りを始める。
だから、私たちは、神話が「両親と暮らす姉妹がいて・・」と語り始める時に、「はあ、なるほど、ご両親がいて、娘さんがふたり、いてはるのかあ」と、どこかの一般のご家庭の団欒を思い描いて「わかって」しまいたくなるのである。
しかし、神話に出てくる非同非異の姉/妹とは、そういうものではない。海幸山幸の神話に登場する「豊玉姫」と「玉依姫」の姉妹神のイメージである。
ここを一般のご家庭のイメージで読んでいると、天に昇って天体と結婚するというあたりから、さっそく意味不明になってくるし、頭がとれて転がって追いかけてきたりすると、恐ろしくなってしまうのである。
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神話を分析して、意識の一番底に曼荼羅状のパターンがゆらめきつつ浮かび上がってくる様子をありありと眺めようとするのであれば、姉とか妹とか、それぞれの項ではなく、その関係、対立関係、二つで一つ、一つで二つの事柄が、距離をとるように分離したり、感情面ですれ違ったり、嘘の言葉によって認識にずれを生じたりする様子を、丁寧に検知していくとよい。
そこで言葉は「時間の流れにしたがって事物を線形に並べる」姿のままで、「いちどきにすべてを表現できる言葉」をシミュレートするようになる。
そしてそのような言葉の力は、私たちが生きる日常性が極度の固着状態に陥り、分離を固定化し、対立を永続化しかねないような苦しい状況に陥った時に、その固着と執着を解き、分別をやわらかく、可動的にすることに寄与するのである。