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私は確かに愛されてきた、という話。【IFS(内的家族システム)ワーク感想・一か月時点】

自分のどんなに醜い部分をどれだけさらけ出しても、どんな事があっても、いつでも常に、揺るぎなく、私の全てを受け入れて支え続けてくれる存在――なんて都合の良いものは、この世界に存在しない、と思ってきた。
少なくとも私にとって、この世界はそういう場所だったし、それは別に毒親育ちとかに関わらず、ごく普通の人にとってもそのはずで、だからそれは永遠に諦めねばならない事だと、「そんなものがなくても生きられるようになる」のが精神的な自立だと、そう信じてきた。

が。いた。
いたのだ。そんな都合のいい存在が。
IFSワークを始めたことで、私はこの恐ろしく都合のいい完全な味方を発見した。いつでもどこでも何でも話せて、どんなに信頼しても依存しても、決して潰れたりしないし、迷惑がったり見捨てたり裏切ったりすることもありえない、絶対的な味方がいたことに気付いた。発見した。

「私」の内側に、「彼ら」はいた。
私が生まれてから今までの間ずっと、「彼ら」は私がどんなに傷ついた時も、私がどれだけ絶望に沈んでいた時も、孤独に溺れて自暴自棄になった時も、私を守り続け、私のために努力し続けてくれていた。信頼できる他者からの安定した愛情を受けられずに育った私を、不器用ながらも懸命に、ひたむきに、愛し、守り続けてくれていた。

私のパーツ達。「彼ら」は全員がはじめから、「私を守る」「私の望みを満たす」ことを至上命題として、「私のため」だけに存在していたのだ。
無論、彼ら=私自身なのだから当然と言えばそうなのだが、IFSによって「彼ら」一人一人を区別し、他者として見ることで、私は逆説的に「私は私のためだけに存在する」ということを、心の底から実感することが出来た。

私の中の「彼ら」は全員が、(一部重なる部分もあるが)私とは違う(ように見える)価値観を語り、私とは違う(ように思える)感情を表現する。
例えば私が「頭が痛い」と言えば、あるパーツは「夜更かしし過ぎだ」と叱ってくるし、「お腹がすいた」と言えば「何でも良いから何か食おうぜ」と催促してくる。私が「ネトゲ内で知らない奴にいきなり喧嘩売られてモヤモヤする」と愚痴ると、「絶対叩き潰す!」とキレ散らかしているパーツもいれば、シクシク泣いているパーツもいて、更に「関わるだけ時間とエネルギーの無駄」とバッサリ切り捨ててくるパーツもいる。
ただ、どのパーツも全て、私のために感情を動かし、私のために考えてくれていて――彼らの感情や思考をそれぞれ尊いと思えば思う程に、彼らが何よりも大切にしている「私という存在」が、この上なく尊いものだ、と感じることが出来るようになった。

私は、ちゃんと、ずっと、愛されていた。「彼ら」によって。

母に「これが愛だ」と言い聞かされていた、まがい物の愛ではなくて。
かつて異性から囁かれた、その時は本物だったかもしれないけれど、関係が終わると同時に薄れたり消えたりするような愛でもなくて。
配慮はあっても遠慮は皆無で、境界線なんか意識しなければ存在しない程に曖昧なまま、本当にあらゆる意味での無条件の愛をくれる存在がいて、私はそんな彼らにずっとずっと、この上なく愛されてきた。

そう理解して認識できたことで、私は私自身を、本当に本当に大切な、かけがえのない尊いものだ、と感じることが出来るようになった。
この感覚の安心感は、凄まじい。昨年に自己受容を覚えてから、私はかなりの安心感を得たと感じていたけれど、更に上があった。
私は、もう一人じゃない。総勢10人を超える「私達」なのだ。いつでも何でも相談できて、傷ついた時には一緒に泣いてくれて、抱きしめて欲しい時には抱きしめてくれて、嬉しいことがあれば私以上に喜んでくれて、ムカつくことがあれば私以上に怒ってくれる、「私達」のコミュニティは、私の意識が続く限り一生離れることなく、一緒にいられることが約束されている。これほど心強いことはないと思う。

もしかして、健全な家庭で育った人には、人生の最初に出会う「家族」がそんな存在なのだろうか?成長に従って徐々に距離が離れていくとしても、人生の記憶の最初には、そんな人やコミュニティが実在するのが「健全な家庭に育った人」なのだろうか?
だとしたらずるい。とんでもなくずるい。マラソンランナーがごく普通のランニングシューズに身軽な状態でスタートするか、サイズの合わないゴム長靴を履かされて、更に背中に15kgの重りを背負わされてスタートするか、ぐらいの違いがあるはずだ。

昨年秋から、私は自分の事を徐々に好きになれてきたと感じていた。地球から滅亡して欲しいレベルの「ピーマン級」から、たまに食べたい時もある「ニラ・もやし級」、そこから「焼き立てのクリームパン級」まで、好きの度合いはじわじわ上がっていたけれど、今、私が感じられている「この感じ」は、クリームパンのような、食べ物として気軽に消費されるようなものには全く例えられない。
私の人生の初めからずっとずっと大切に守られ続けてきた、という意味では天然記念物とかそういう貴重さなのだけれど、もっとずっと個人的なものだし、世の中の全ての人は、それぞれの人にとって同じだけ尊いのだから、えぇと、これを何に例えればよいだろう。
もしかすると、この尊さは、「大切に育てられた子を、育てた側の気持ちで見た時」としてしか表現できないのかもしれない。
私の中のデータベースにはそんなものは存在しないが、かぐや姫にある「おじいさんとおばあさんは、その子を大切に大切に育てました」というフレーズから想像したものが、最も近しいように思う。

そう。私は、尊い。
私の中のパーツ達である「彼ら」が、長年傷を負い続け、ボロボロになりながらも必死に守り続けてきた私は、この世界の何よりも、間違いなく尊いものだ。少なくとも私にとってはそうだし、この先もずっとそうあるべきだ。
私はこんなにも大切に守られ、支えられ、愛されてきた。「彼ら」が存在の全てをかけて守り通してくれたおかげで、「私」が今ここに存在することを誇らしくさえ思う。

そして、「彼ら」を愛するならば、「彼ら」の愛に応えるならば、私は、私を傷付けたり貶めようとするものは許容してはならないし、(現実的な制約はあるにせよ)そういったものからは出来るだけ離れなければならないと、そう強く感じる。
この先の私の人生はきっと、どうすれば私を大切に出来るか、どうすれば私を大切にしない他者・環境・状況から離れられるか、といったことを最重視した生き方になっていくだろう。
それはきっと、良い変化――というより、回り道をしてようやく「本来あるべき生き方」を出来るようになったという事なのだと思う。

私は、間違いなく、ちゃんと、ずっと、愛されてきた。他の誰に愛されなくても、「彼ら」によって、この上なく愛され続けてきた。
その実感を得られたことは、私のこの一か月のIFSワークでの、本当に重要な成果だ。

そして「私達」を意識することで、ごく普通の意味での「他者」と「私」の境界線も、ハッキリと引けるようになった気がする。
どういう種類の不安であれ、ちょっとでも不安がある時は、いつでもどこでも、内側の皆に尋ねてみれば良い。それが出来るのが「私達」で、そうでない他人が「他者」。この上なく、分かりやすい。

私の中のパーツ達が、すべて出揃ったのかどうかは分からない。まだ未発見のパーツがあるかもしれないし、もうないのかもしれない。
まだ、彼らの傷の全てを癒しきれたわけでもない。ただどうあれ、私は私を満たすために――それが、ひいては他者のためになることもあるだろうし、ならない事もあるだろうけれど――この先を生きていけるし、生きていくべきだと、そう感じられるようになった。
私の大切なパーツ達が、それぞれ全力を尽くして大切に守り続けてくれた「私」を、何よりも大切にしながら。究極の自給自足だけれど、恐らくこの「自尊心」と呼ぶべきものを、大切に。この先を生きていこうと誓っている。

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