夏も終盤。 汗かきリュック派が抱えるであろう悩み、背中のびしょびしょ対策に奔走した日々。汗っかきをポジティブに言うなら、代謝が良い身体だと思う。 放置していたnoteに文を打とうと考えたのは、 何か言いたい事がある訳でもなく、 何か考えたい事がある訳でもなく、 単なるメモ、ただ足跡をつけたくなっただけである。前にも言ったよね。 仕事もして、 趣味もして、 友人や色んな人と会って、 でも相変わらずお金は無くて… 今年のサマータイムはそんなもんです。 歳取れば特別な
久しぶりのnote。 最後に書き殴ったのはいつだろう。 自分を表現するコンテンツとしてインスタメインでやっているけれど、やっぱり文字、文章で表現しようとするとネガっちゃう性格だという事が分かった。言葉に不器用というより、もっと根本的な、深い部分で歪みがあってそこから見方が他の人よりもマイナスな方に向いてしまうんだろう。 それも一つの個性として受け入れるのも良いけど、それ故に生きづらさと常に遭遇するのも体力の限度というものがある。そこで悩んできた。 自分ばっかに目を向けない
上手くいってる時こそ怖いってあるよね。 しんどい時は底が見えてた。上がる事だけ考えてた。人生で登りきるといったら基本的に天寿を全うする事なんだろうけど、そこ目指して登ってる間は上も見なきゃいけないし下も怖い。大事なものを得る時はそれを失う恐怖もセットで付いてくる。怖いのは今も昔も変わらない。今と昔で違うと思うのは、見えてる世界が少しずつ広がってるとこ。そして失う事は当たり前、ごく自然、極めてナチュラルな理だと思い始めているとこ。何百年、何千年も前から、そんな事は誰もが経験し
シン・ウルトラマン感想 「ネタバレ。私の苦手な言葉です。」
仕事をしていると金遣いが荒くなる。 また稼げばいっかとか、頑張ってる自分への贅沢とか色々言い訳あるけれど良くない。 お金の管理をしっかりしようと思って昨年Excelで超簡単な家計簿をネット漁って作ってみたが、今パソコンのどこにあるのか分からないくらい忘れ去られている。 食欲旺盛は出費が嵩む。美味いものに金を払うのは無駄じゃないと思うけど、問題は頻度よね。外食の月に行く回数の平均は2〜3回に対し自分は覚えてるだけでも5、6回は行ってる。この中にはウーバーイーツも含まれる。(
最高の過去が過ぎ去ってしまっても、最低な過去を作ってしまっても、今できる事をして、今という時間軸を全身全霊で生きてゆく。ぐらいしか自分がやれる事は無いと昨年から思い始めた。そのマインドは、少しずつ自分を変えているような気がする。インプットばっかで、自分以外に目を向ける事が苦手だった。自分の中でイメージが完結していた。よって歪んでいた。歪なゴーグルをかけていた。それを外した時には、すでに学生ではなくなっていた。 成長自体はできる。でも問題はその速度だ。 “今の自分の領域に、
最近特に特筆すべき事項は無いけど、何か書きましょうか。 また体操を教える様になった。幼小中高大そして社会人に至るまで、年齢層は広い。教えて相手ができるようになったら嬉しい。お互いとても嬉しい。それが体操というか、アクロバットの楽しさの一つでしょう。あとご存じの通り、自分もできる技が増えればそりゃあ楽しい。体操は体を操る。意のままに肉体操れたらやっぱ楽しい。どこに出かけたって、その気になったら自分は動ける、と動けないではウキウキ度が違う。安心感が違う。(と思ってるけど実際人目
前回の投稿では新年早々ニューイヤーブルーをかました訳だけれど、結局それも一過性のものに過ぎない代物で、落ち着いてから改めて昨年を振り返ると、所々に良い事や嬉しかった事はやはりあったのだ。クラスメイトや先輩後輩に助けられたり、チャリで通える距離に引っ越してきた友人と遊びまくったり飲み食いして語り合ったり笑い合ったり、知り合った一回り二回り年上の人と飲みに行き、とてもうまい吟醸酒を教えてもらったり、前回の記事に書いた通りすぐ辞めてしまったけどなんだかんだ大きな会社から面接をパスし
2021年からnoteを書き始めて、初っ端からネガティブで、小さくて、痛々しくて、歪んでいて、大変くだらない事をここで露わにしてきた。考えを整理する事を当初目的にしていたけど、実際ただぶちまけただけで整理はそこまでできていないと思う。今回は2021年の出来事を振り返るという名目でぶちまけに来た。 とりあえず働こうと、最初やりたかった動画編集のアルバイト求人を漁った。ポートフォリオに対するお祈りメールを受け取る度、ことごとく自分はセンスもスキルも足りない事を知らされ、やっと採
事は7月に起こった。と、思う。 夜。JR南武線と東急田園都市線の乗り換えを目的に、多くの人が行き交う「溝口」またの名を武蔵溝口駅。そこに私はいた。そこを歩いていた。帰路を目指すという目的で歩いていた。そこは2階で、地上へ降りる階段がいくつかのポイントに点在する。どこの階段で降りるか、決めていなかった。どこでも降りられるからこそ、考えなかった。しかし歩いていると、行き交う大衆の流れがとても嫌になってきた。だからふと、「降りよう。」と、右手奥にあった一番自分のポジションから近か
昔から、ニュースで無差別的な犯罪を犯す人は映る。 「私なら絶対そんな事しない。できない。」 「あり得ない。信じられない。同じ人間とは思えない。」 「元々そういう性格だったから社会からはみ出したんだろ」 …すごいね。どっから湧いてくるんだその自信。自分なら絶対にそういう過ちを犯さないって、何の根拠からそう言い切れてるの?今までやった事ないから?周りに止めてくれる友人や師がいるから?それらが無くなる事なんてザラにあるんだぞ?それが無くなった時の自分、追い詰められた時の自分
世の中ってなんでもありだよな。 落ちこぼれがスターやアーティストになったり、極貧が金持ちになってプラチナカードの審査に通ったり、国によって神様違うし、無理だよって思ったこともなんだかんだやり繰りできちゃう事あるし、難治の病気も回復したりする。辺りがミサイルや銃の音に包まれても笑う子供もいる。絶望的な状況で子供を産む母親もいる。不可能が可能になったり、常識も信じてる事も時代によって変わる。 いやあ、なんでもありでなんでも起こるよねホント世の中って。 ホントなんでもありだよ
バックパックを新調しよう。 そう思い、手当たり次第にググって探す。 横開きできるやつが良いな。色は社交的な場面でもイケる黒かな。横開きできるけど、リュックの端から端まで全部開いちゃうタイプは嫌い。大きすぎず小さすぎず。型崩れしにくい。ロゴとか無いってより存在感ちょっとだけのやつ… どんどん条件を絞ってくと、とあるバックパックの元にたどり着いた。あれ、これ誰かが使ってるの見た事ある… あ、あいつか。懐かしいな。会う機会も無いと思うが、まあ元気にやってる事でしょう。———
人間らしいね、とか、人間らしくて良いじゃん、と言われた事があるんだけど、言う側はヒトではないの?人間になりすました宇宙人か何か?
5月の末に、母方の祖母が逝去された。 朝方に近い深夜ごろ、息絶えたそうだ。 その前日から、母へ少し具合が悪いと連絡をしていた。が、翌日には葬式の手配が淡々と行われ、このご時世という事もあり我が家だけで弔うことになった。 疎遠になってたから元々関係はお世辞にも深いとは言えない。祖母はただ一人暮らしていた。祖母は自分に会いたかっただろうか。もっと会うべきだっただろうか。それを確認できる時間は、もう過ぎ去った。過ぎ去ったのだ。自分は会いたいと思わなかった。しかし今考えると、やっぱ
noteを投稿し始めて少し経ったこの頃、自分の投稿文を最初の「初稿」から見直してみた。 「今語りたいことあんま無い。そんな暇ない。」 あれからバリバリ語ってるじゃん、ひゃあ恥ずかしい笑 他にも見るだけで共感性羞恥が発動してしまうような文章構成は沢山ある。ほんとに自分が書いたの?これ笑 もんのすごく恥ずかしいんだけど。心が痛い… 文才の無さが窺えるが、じゃあ恥ずいから書かない見せないだと、それも違うと思う。良い文章が書きたいのはあるけど、自分の考え、感想を可視化する事に