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灰 - Ashes

5月の末に、母方の祖母が逝去された。
朝方に近い深夜ごろ、息絶えたそうだ。
その前日から、母へ少し具合が悪いと連絡をしていた。が、翌日には葬式の手配が淡々と行われ、このご時世という事もあり我が家だけで弔うことになった。

疎遠になってたから元々関係はお世辞にも深いとは言えない。祖母はただ一人暮らしていた。祖母は自分に会いたかっただろうか。もっと会うべきだっただろうか。それを確認できる時間は、もう過ぎ去った。過ぎ去ったのだ。自分は会いたいと思わなかった。しかし今考えると、やっぱり祖母は寂しかったのかもしれない。祖母と昼食を食べるはずだったあの時、一緒に食えば良かったなと少し思う。あの機会が最後のタイミングだった。それが分かるのは、本人が文字通り骨身になった後だと知る。別に後悔という形ではないが、それは心に残る。しかしもうそれも終わりだ。終わらせる。死者にしてやれる事など何もない。生きてる人を大切に。

葬式は初に等しかった。過去に行った事のある父方の祖父の葬式は、まだとても幼い頃でよく覚えていない。断片的に覚えているのは、お骨を箸で掴んだシーン。今回の葬式は、自分の記憶に初めて鮮明に残るものだった。

ものの1時間で、祖母は骨へと姿を変えた。
祖母は、祖母だったものは、両手で抱えるくらいの少し大きな木箱に収まって、納まった。その木箱には、体の主な部位の骨からチリと化した骨片まで全てが入っている。人間は、骨になればこの木箱にも収まるのだ。無論それは自分も、これを読んでるあなたも。行き着くところは生のない物体、塊にやはり変わりはない。別にサイコパス的な考え方でもないだろう。普通。普通すぎて普段意識なんてしないものでもある。車で帰路に着く間、骨の入った木箱を抱えながらそういうことをぼんやりと考えていた。

初めて祖母の遺体を直視した時、頭の中は無だった。関わりが薄かったと言う理由とは別に、今何を思ったとてそれは本人に伝える事ができないからでもある。去年は家の猫が、今年は祖母が、去っていった。結局死に際良かったと言える人生を送れたのか。分からない。本人、本猫にそれを聞きそびれたのではなく、聞くのが億劫だった。それでも良いよ。多分参考にならない。

なりたいままに生き続けたい。そうは問屋が卸さない世の中。だけど少なからず世を去ったものへの礼儀として自分が正しいと思う事は葬式でも墓参りでもなく、命を粗末にしない。だと思うから、そうする。死にたいと思うことはあっても、お粗末にはしないように。んな事もっと前から分かっとけって思うし、そもそもそこまでクソ真面目に構えなくて良いと思う。素が真面目なのでこういう思考になるだけ。まあ自分は真面目系クズだと思うので、文面では堅いけど実際はもっとルーズんなってちょうど良くなるんじゃないだろうか。

去年の6月に死んで一周忌となる我が家の猫に話は変わり、話は終わるが、やつは腎臓が弱かった。その癖、唐揚げなどの脂っこい肉をいつかのタイミングで舐めたか齧ったかで味を占めたらしく、よくこっちの食事を狙っていた。ルミは…あいつは本当に可愛かった。

また猫と暮らしたい。 猫は世界を救うって言葉、あながち間違いじゃないと思うの自分だけだろうか。

猫好きでも犬好きでも珍獣好きでも、動物に好かれる人は良いハンターの証拠らしいです。良かった。(ん?)
色々大変だけれども、前よりは前向きだなと感じます。それでは良い夏を。

Bgm 05

加藤和彦 - あの素晴らしい愛をもう一度

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