冷たい正しさ - Icy Rights
事は7月に起こった。と、思う。
夜。JR南武線と東急田園都市線の乗り換えを目的に、多くの人が行き交う「溝口」またの名を武蔵溝口駅。そこに私はいた。そこを歩いていた。帰路を目指すという目的で歩いていた。そこは2階で、地上へ降りる階段がいくつかのポイントに点在する。どこの階段で降りるか、決めていなかった。どこでも降りられるからこそ、考えなかった。しかし歩いていると、行き交う大衆の流れがとても嫌になってきた。だからふと、「降りよう。」と、右手奥にあった一番自分のポジションから近かったであろう階段へ、視線と体を向けた。しかしそこへは、右に流れ歩いている人々の流れを突っ切る必要がある。一瞬躊躇ったが、いや、降りようとその階段を使い地上へ下る事を選んだ。階段へ向かう。歩を進める。すると、目の前で誰かが足を止めた。
ん?
その人をよく見た訳ではないので断定はできないが、明るい色に染めたロング髪の女性っぽかった。
最初その人が止まる理由は自分に関係無いと思ったが、多くの人が右へ流れている中、その人はこちらを見て硬直している感じだった。え、知り合い?いや、だったら声をかけるかそれっぽいジェスチャーをしてくるはず...。その人の後ろに、階段がある。”まさか”、とこの時点でなんとなくその人が止まっている意味を推察したが、それでも”まさか”の範疇であるので、そのままその人から距離を置いて遠回り気味に階段を目指した。しかし距離を置いて横切る時、その人はバッと身構えるような姿勢を取った。ウ、ウルトラマン⁉︎
明らかな警戒。明らかな不信。
そう。そのまさかとは、もしかして、自分、今変質者と疑われてる?という事。
見た目に自信なんて無い。変質者と絶対間違えられないなんて自信を持ってた訳じゃない。
だけど・・・ショックを受けない訳がないだろう。
身だしなみもしっかりして家を出た。不審者みたいな格好でも無かった。しかしあの反応は...、ええ…。
結果身構えた人は身構えただけで、自分は目的の階段へ辿り着き、何も起きなかったといえば何も起きなかった。しかしそのシチュエーションは、自分の内部に拭えないモヤモヤを、作り出した。
階段を降りている時から帰路に着くまで、もうショックが頭の中を埋め尽くしていた。いいよ。別に。見知らぬ人を疑ったり警戒したりするという行為自体、悪い事じゃない。自分も人を疑うし、警戒する事はある。身を守る上で大事だと思う。しかしあらぬ疑いをかけられた側も、潔白が伝わるまでにストレスを浴びない訳がないのだ。というかそもそも普通こんな事起きるのか??普通に歩いていて身構えられるという経験は、初めてだった。こんな出来事に出くわした自分が、運が悪かったのか。それとも一般的にまあよくある話なのか。ネガティブに考えすぎなのか、分からない。差別や迫害をされる人達の感覚とはこういう感じなのだろうか。このショックを、このストレスを、感じ続けているのだろうか。自分よりもっと沢山。麻痺するくらいに。
というかなぜ自分はこんなにショックを受けているのだろう。誰かに疑われるなんて取るに足らない事なんだ、人生の中においては。自分を愛せていないからなのか。誰かにとって自分は良い人でありたいという欲があるからなのか。
おそらく後者。
客観的に見れば自分は良い人とは言えない。僕とよく関わっていた人なら分かるだろう。自分を良い子と思うのはお門違いだ。誰かにとって悪いやつ。誰かにとって良いやつ。それだけ。そういうスタンスのつもりだった。しかし今、誰かに疑われたという事にショックを受けてるということは、結局深い部分で、誰かに良い人に見られたいと願う自分が根強く在るという事でもあると思う。でもそれは…それは多分みんなそうじゃないか!そんなもんだ。理想と本音にずれが起きるのは、脳みそが、理性がちゃんと働いてる人間である証じゃないのか。ただ、まだそこのコントロール、気持ちとの付き合い方が未熟だというだけなんだ。自分は。
嗚呼、なんて余裕が無いんだろう。超ポジティブに言えばエモーショナルでロマンチスト、感受性が高いというこの傾向は、このようなデメリット、余裕の無さを度々引き起こす。人間社会で生きる上で、「余裕が無い」という事は命取り。命の危機に値すると思っている。余裕が枯渇しやすい自分は、社会においてなんとも脆くくたばりやすいステータスなのだ。感情豊かな性格というものは、側から見たら共感性が高くて羨ましいと言われ、別の側から見たら"頭お花畑”なものなのだ。だから、感情豊かだからこそ、”冷たい正しさ”ってやつを学ぶ必要があると思う。法律やそれぞれの環境のルールは、そんな”冷たい正しさ”から生まれた、”冷たくも平等なもの”だ。それは人の持つ感情に囚われず、あくまで公平な判断を人間が決めれる為に作られたもの。もちろんそこにメリットデメリットはある。一喜一憂できるといった自分の特徴を、今後捨てるつもりは無い。これは大事なもの。ただそこに”冷たい正しさ”を学び、加える。それだけ。それが自分に足りない感覚だと思うから。そういう自分を守る為に、必要だと思うから。
なにも良い人になりたい訳じゃない。ただ、誰かにとって悪いやつになる度胸がないだけだと思う。本当に良く在りたいのか、ただ誰かからの拒絶を恐れているだけなのか。自分はまだ後者だね。怖いよ、相変わらず。それでいてモノホンの良い子でも無い。中途半端だ。でも当たり前だろ、そんなこと。お互い人間だもの。思いやりが大事なのはその通りだが、センシティブな人にとって思いやりが自分の身を削るものである以上、時には自己中を選ぶ。自分を守るために。そして何よりそれは、世の冷たくも平等なルールで認められている事だから。
変質者扱いされた話からだいぶ遠くへ来てしまったけど、書き綴った事でちょっとすっきりした気がしなくもない。冷たい正しさを持つことで、誰かにとって都合の悪いやつになっても、それは冷たくも正しいのだ。あの時自分は階段を目指しただけ。だから、その人の疑心をわざわざ慮って対応する必要は無い。身を案じて疑いを持つのは結構です。だけど疑ってる内容は事実無根だ。話はそれだけ。シンプルイズザベスト。
感情豊かだけど脆い人、鈍感だがその分打たれ強い人、
果たしてどちらが幸せなのだろうか。
学生の頃から感じていたこの疑問に、まだ答えは見つからない。