トルストイの国 愛すべき隣人たち ②
正直なところ、自分は机に向かうのが苦手でしかたがない。
過去のトラウマに起因する学習障害かもしれないが、とにかくじっとしていられないのだ。
だからスタバで毎週2時間(はじめのうちは隔週)行われたロシア語のレッスンは、慣れるまでとても苦労した。
しかも対面である。
当然ながら周りは他の大勢のお客さんで賑わっており、座席も毎回椅子取りゲームである。
早めに行って二人分のコーヒーを注文し、
なるべく目立たぬよう隅の席を確保するのが常だった。
とはいえバイトの女の子たちはみな4年もの間ずっと笑顔で迎えてくれ、何かと気を使ってくれたのには今でも感謝している。
ロシア人留学生
その時の事は今でもはっきりと覚えている。
ソワソワしつつ申し合わせた場所で待っていると、ブロンドのショートヘアに明るい柄の上品なワンピースがマッチした、
知性漂うとても綺麗なロシア人女性が雑踏の中から現れた。
思わずドキッとする。
「はじめまして、エレナです。よろしくおねがいします」
流暢な日本語が更なるギャップとなり追い打ちをかける。
後で聞けば、彼女は奨学金を得て日本に留学し、今は院生だというからそれも頷ける。
互いに簡単な自己紹介を済ませた後、緊張も解けぬまま早速レッスンを受けることになった。
アルファベット
ロシア語のアルファベットは英語のそれと共通する部分はあまりない。
おまけにВ(ヴェー)はVに相当し、
Х (ハー)はHに、
Н (エヌ)はNだからややこしい。
因みにР(巻き舌のエル)はRだ…
で、手渡されたテキストにあるこれら33文字を
А(アー)Б(ベー)В(ヴェー)Г(ゲー)
Д (デー)…と音読することから始まった。
しかし、いいオジサンが一回りも若いロシア人女性を前にこれをやるのだから、人目が気にならない訳が無い。
「先生、あの、ホントにここで読むんですか?」と今更なことを言うと、
「ここで恥ずかしがっていては、ロシアに行った時にどうするんですか」とあたり前な答えが返って来た。
ここは日本の筈なのになぜか既にアウェー感、最初から押され気味なのだった。
にしてもやはりロシア人はストレートなんだなぁ。
もう開き直るしかない。
周りの雑音を超えない程度の声量を意識しつつ、ボソボソとぎこちなく発音し始めた…
と、まあ最初は全くしどろもどろで、このような情けない滑り出しとなってしまった。
けれど、そのおかげで度胸がついたのは間違いない。
なによりも、ひたすら丁寧に教えようとする彼女の誠実さに好感が持てたし、これなら続けられそうだという予感は、
また更に一歩、ロシアという新しい世界へ踏み出せたというリアルな確信へと変わり、同時に嬉しさで一杯になった。
…こうした彼女の熱心な指導の甲斐もあって、最初の授業をなんとかクリアすることができた。
判っていたけれど、40歳を超えてからの語学なんて普通でも大変だろうな、
でもやってみるさ。
別れ際、「どうぞこれからもよろしくお願いします」と握手を求めると、
「こちらこそよろしくお願いします」と、彼女は明るい笑顔で答えてくれた。
その時初めて、国や言葉の壁など本当は存在しない事に気付かされたのだった。