著者は臨床心理士で依存症やDVの専門家。アダルトチルドレン(AC)という言葉は、元々はベトナム戦争という時代背景でアルコール依存症の家族で育って大人になった人々(Adult Children of Alcoholics)を指すことを初めて知った。その後、ACは「現在の生きづらさが、親との関係に起因する」人々と定義される。その親から影響に気づくことが、自由になるために大切なこと、そしてACは肯定的な言葉であると著者は説く。私自身がACであったので、著者の深い分析は共感できる箇所が多々あった。ACについて理解したい人にとってぜひ読むべき良書。
■第1章 待たれていた言葉、アダルト・チルドレン ■第2章 アダルト・チルドレンを再定義する ■第3章 アダルト・チルドレンという人たち ■第4章 性虐待と機能不全家族 ■第5章 トラウマとインナーペアレンツ ■第6章 ACのグループカウンセリングで語られること ■第7章 「家族愛」を問い直す ■第8章 回復に向けて──サイコドラマ ■第9章 ACプライド──誇りに満ちて生きる ■第10章 そして、今──パンデミックのなかで ■補 章 ドメスティック・バイオレンス──日本で女性として生きるということ
以下、気になった個所を抜粋
四つの円がありますが、この中で「非暴力=暴力を禁止する」のは、市民社会だけということを知っていただきたいのです。 つまり、法律が適用されるのは市民社会だけです。言い換えると、国家と家族においては暴力が容認されているのです。容認というよりも、法律の適用範囲から外されているのです。 「法は家族に入らず」という原則は、ローマ法の精神であり、近代になっても共有されていました。家族という親密で愛情によって結ばれた集団に法など必要ないと考えられたからです。しかし、多くの先進国では家庭内の暴力が顕在化することで、「法は家族に介入する」ように変化してきました。その潮流は1980年代のアメリカ、1990年代のカナダへと波及しました。東アジででも1990年代末の韓国、その後台湾にも読んでいます。具体的にはDV(ドメスティック・バイオレンス)の加害者を、被害者の告訴がなくても、法律の判断で警察が逮捕できることを意味します。こうして、法は家庭に入るようになったのです。 日本では、2000年に自動虐待防止法、2001年にDV防止ができたにも関わらず、それらは「防止」だけで「禁止」はしていません。つまり加害者を逮捕することはできないままなのです。従がって、日本は今でも「法は家庭に入らず」のままであり、言い換えると家族は治外法権であり、「無法地帯」のままだと言えるでしょう。 97-98
家族は1枚岩ではありません。本書でも述べてきたように、家族は国家のミニチュアであるかのように、権力が蔓延り、力関係の強弱がもっとも顕著に現れる場所なのです。各国でDVの増加が叫ばれ、日本でも無料相談が開始されたことはこれらを裏付けるものです。外部に閉ざされた家族は、力関係においての弱者である人たちにとっての逃げ場所を封鎖されたことを意味します。225
しかし、すでにおわかりのように、男性も同様に、企業や家庭や地域において。、微細な上下関係や支配関係を及ぶ技術なくして生き残れない社会になっているのです。共依存、いや「共」支配は、そのなかを生き延びていくための有効なスキルの集積でもあるわけです。弱者のふりをして支配する、相手を弱者化することで支配者となる、相手を保護者に仕立ててケアを引き出す、などなど。 隠微でどこか卑怯な香りとするこのような支配を、私は好んでいるわけではありません。しかし、生き残っていくためにはそんなスキルを用いるしかないときもあるでしょう。本書をお読みになった方が、他者を支配するために共依存的になることもあるでしょう。私はそれを責めることはできませんが、むしろ、支配から脱するために、支配してない・されない地平を希求するために、役に立てていただきたいと思います。ケアや愛情という美名の影に隠れた支配明らかにすることで、紛らわしさが少なくなれば幸いです。 少しだけ残念なことに、そのようなスキルに長けけてるのは男性より女性の方なのです。 それは、彼女たちが明治以来100年を超える近代家族を生き延びたことでもたらされた、負の遺産なのかもしれないとも思うのです。173
カウンセリングでできること 医療保険の適用外の料金を払ってまでカウンセリングに訪れる人(クライエント)は、心の悩みというより、苦しい、辛いからという切実な理由からです。 問題は人それぞれで、その問題が何かをはっきりさせていくのも私たちの仕事です。クライエントはつき動かされる何かがあってくるのです。自分ひとりで抱え込めないと思ったことを褒めないといけません。なぜなら。 人が自分の苦しさを全て自分で抱え込めるというのは傲慢なのです。人の助けを借りるというのは少しも恥ずかしいことではないし、借りたほうが勝ちなのです。200
ACの人たちが「親が悪い」と言えたら、1段階ステップアップしたと私は思います。それは「自分は親から被害を受けた」と認めることだからです。 ・・・その人はずっと自分が悪い子だったと意味づけて、自分を責めて苦しんできたのです。ACは、初めて親が悪いということを許し、そして楽になってもらおうとするのです。楽になってもいいという言葉が、その人にとってはACだったのです。208
ACは全てを肯定する ACというラベルは自分の状態を肯定的にとらえられるという意味があります。それは医者の下す接触障害とか、人格障害とか、ボーダーラインなどの診断はとは一線を画するどころか、遠く遠く離れたものだろうと考えています。ACを病気だと判断する立場でしょう。医者というアイデンティティから診察するわけで、それもひとつの立場です。209
なぜACが肯定効果というと、まず、ACの基本が「親の支配を認める」ということにあるからです。つまり、ACと親の支配を読み解く言語なのです。 ACとは私たちが生まれ育った家族における親の影響、親の支配、親の拘束というものを認める言葉なのです。つまりそういう支配を受けた今の私がいるということ、まったく純白のところから私たちが色をつけられたのではなくて、親の支配のもとにあって影響を受けながら、今このように生きてることを認める言葉なのです。自分がこんなに苦しいのは、「私はどうも性格がおかしいのではないか」とか、「私が意思が弱かったのではないか」ということではなくて、そこには親の影響あったのだと認めることで、あなたに責任はないと免責する言葉でもあるわけです。 もうひとつの理由は、自分が楽になることはいいことだと認めることはだからです。余分なものは背負わず、嫌なことはしないで、もっと楽に生きようとすることは、素晴らしいことです。日本人は楽に生きることに対して認めなかったり、貶めたりする傾向があります。自分を苦しめないとサボっているのではないかという世間の目を取り込み、追い立てられています。それは親の目でもあります。楽になってはなぜいけないかと開き直ってもいいでしょう。楽になることを肯定する、という意味でも肯定言語です。210
ACは誇りであり、さらに言えば人間の尊厳を表すものです。 自分の人生の座標軸を肯定し、「私はこれまでこのように生きてきて、このように親の影響から出していこうとしている」と考える。上と下から挟まれて苦しみながら、鎖のかなめの中年期のACがこう考えることは、誠実で真意しない生き方を実行してる人と言えるのです。 それは誇っていいことです。 これが「ACプライド」で呼ぶ理由です。これは「自己肯定感」とは無関係です。 そして、すでにお分かりの通り、これは中年世代に限ったことではないのです。親子関係に苦しむ人、つまりあらゆる世代のACにこれは共通しています。 自尊心とは、自分に与えられた、自分を支配してきたものを、幻想をはぎ取って見つめ直すことで得られると思います。それは、「自己肯定感」とはほど遠いものなのです。211
日本でも1980年代には夫から殴られている女性たちを保護する民間シェルターがいくつも生まれ、女性を支援するフェミニスト団体では夫の暴力という言葉はすでに使用されていました。 ・・・大きな転換は、1995年9月に開催された第4回世界女性会議の北京宣言によってもたらされました。宣言文にはジェンダー平等と女性に対するあらゆる暴力の撤廃が謡われており、黙認されがちだった家庭内の女性への暴力がドメスティック・バイレンス(DV)と名づけられ、その根絶が目標に掲げられたのです。 北京会議参加者たちによって、DVという言葉は日本の支援者に仕上がり、夫から殴られた女性たちをDV被害者と呼ぶようになりました。名付けられる必要があり待たれていた言葉として、DVが1995年の秋に多くの専門家たちに、そして何より当事者である女性たちに共有されることになりました。230
妻は支配するための洗脳 結婚と同時に、彼らは状況の定義権を妻から奪うこと(妻に許さないこと)に腐心するのです。いや、楽しみながらそれを行うと言ってもいいでしょう。植物に例えれば、妻の育ってきた土壌から根っこを抜き、自分と同じ鉢に移植する作業に似ています。根っこを抜くための有効なのは、否定し、罵倒することで、それまで妻の依拠していた自信を破壊し、打ち砕くことです。身体的暴力がそのためのひとつに過ぎません。根っこを引き抜いてしまえば、あとは自分の植木鉢のルールに従って育てるだけです。 これはあらゆる洗脳のに共通のプロセスです。かつての新入社員研修も、新興宗教の勧誘も、これまでの価値観をいったん捨てさせて新しい価値観を植え付けることを目的としています。突然殴られ(怒鳴られ)、わけがわからないままに否定され、ときには出ていけ(出ていく)と言われる――この唐突な混乱こそ、根を引き抜くチャンスなのです。無防備で混乱した妻に、夫である自分だけが正しい、自分以外の世界を信じるなという考えを植え込むのです。 しばしば被害者が夫から逃げられない理由は「無力化」されたらだと説明されますが、根っこを抜かれて移植された夫の定義によるワールドだけが彼女たちの世界なのであり、それ以外は存在しないと信じ込んでるから逃げないのです。 こうした「自発的服従」により支配が貫徹させるのです。 236
(2024年5月27日)