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フロイトの精神分析、ロジャーズの心理学はその後の基礎・土台になっている【心理学とカウンセリング】

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いかがお過ごしでしょうか。トビタケです。

今日は10/18。秋ですね。なんだか暖かい日差しが出ています。

今日は、私が大好きな本を紹介したいと思っています。國分康孝さんの『カウンセリングの理論』という本です。心理学系の本ではお馴染みの誠信書房さんから出ています。

特にフロイトとロジャーズの理論が面白いので、そこを中心に触れていきます。

人間の可能性を最大限引き出してくれるのが、彼らの考えなのではないかと思っています。

それではよろしくお願いします!☺
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本編は7,500字です!


本編

お気に入りの本と言っておきながら、私がこの本に出会ったのはそんなに昔ではない。結構最近だ。

それなのに、おそらくこのnoteアカウントで、私の書いている文章の中で、今回のこの記事が最も価値の高いものになると思う。この本が良すぎるからだ。

この本のどこがいいのかというと、文章の中に面白みがある。テンポよく語りかけてくるし、そこに知性も感じる。

 精神分析では、人間は本能のかたまりだとみるが、本能のままに動くものだとはみない。自我や超自我とのバランスの中でのみ発動するのである。自我や超自我は後天的な学習の結果である。それゆえ、健全な人間とは先天的なもの(イド・エス)と、後天的な学習の結果(自我、超自我)が上手に統合されている人間である。
 同じことがロジャーズについてもいえる。先天的な有機体(organism)が後天的な学習の結果である自己(self)と調和をとり統合されている状態が好ましい人間像なのである。
(中省略)
 人間とはそもそも生物的な存在である。ということは先天的なある傾向をもった存在である。フロイトはこの先天的な傾向を、生の本能、死の本能としてしめくくった。同じ生物主義でも行動療法は、先天的能力として学習能力を挙げている。ロジャーズはどうか。
 ロジャーズは人間の本質を、生物体として全体的にとらえ、これを有機体(organism)といっている。この有機体にはフロイトのいうエス、イドのように衝動力・動物的・破壊的な傾向はない。では有機体の先天的傾向は何か。
 有機体の先天的傾向とは自己実現への傾向である。成長への傾向、自律性への傾向、独立への傾向などのことである。通俗的にいえば、よくなる力が人間には内在しているという人間観である。
 同じ生物主義でもフロイトのいうイドやエスは反社会的なよくないものである。それゆえ、自我や超自我がエスやイドをコントロールしないと社会の秩序は保てないと考える。ところがロジャーズはそうではない。人間には本来、知恵がそなわっていると考える。

『カウンセリングの理論』pp.77-78

内容そのものの面白いところは、まず人間の本質的な部分についての洞察があるところである。

フロイトの捉えた人間観は「エス」というエネルギー源が引っ張って、自我で現実に即した行動をコントロールしようとするけれども、習慣化されるべき部分は超自我にゆだねる。そんな捉え方。

ロジャーズや人間性心理学を作った先達は、人間の本質は一生物として全体として捉えるもので、マズローのいうように「自己実現の方向へむかっていく」よくなる力をもっているものだと考える。

それぞれについて理解を深めることで、自分を理解し、前進させることができる。様々な状況にも対応できる。


また、多くのカウンセリング理論に触れながら、カウンセリング自体の役割や理論全体で共通している方針なども紹介している。


・・・結論から言うと、精神分析では人間の性格は三つの部分から構成されていると考える。エス(イド)、自我(エゴ)、超自我(上位自我)である。この三つのバランスがどうなっているかという見地から性格を見るのである。
 エスとは本能的欲求である。食欲・性欲・攻撃欲・甘え(依存)欲求がその主たるものである。これらは快楽原則に従って表出しようとする。ところが外界には現実原則があるので、ストレートに表出してよいときとわるいときがある。あるいは変形して表現した方がよいときもある。そういう現実的な判断をする部分が自我(エゴ)である。自我は後天的な学習の結果である。養育者から禁止命令・称賛・処罰を受けながら、身についていく部分である。
 自我が外界を観察して、いちいち判断するのは面倒である。心理経済的にムダである。そこで自我の一部が無意識化して自動的に行動を律するようになる。これが超自我である。殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、だますなかれなどはいずれも超自我である。
(中省略)
 超自我は行動の一貫性や毅然たる態度、精神的崇高性などの源泉である。しかし、超自我がきびしすぎると慢性の自己懲罰・自己非難となり、うつうつたる人生を送るようになる。過ぎたるは及ばざるが如しである。しかし、超自我がないと厚顔無恥の人間になる。
 自我は現実能力である。具体的には現実判断力、柔軟性、欲求不満耐性の源泉である。自我が未熟だと外界に入ってはいけない。引込み思案、気が弱い、お人好し、わがままなどは自我の未成熟の例である。しかし、自我が極度に発達すると、目から鼻に抜ける人間、ずる賢い人間、ロマンのない人間と不評を買うことになる。
 エスは本能的・野性的なものであるから、バイタリティの源泉である。しかし、これのみが旺盛だと精神的崇高性が感じられない。快楽主義者と見なされがちである。かといってエスが貧困だと、自我も超自我も弱々しいものになる。自我や超自我のエネルギーの供給源がエスだからである。
(中省略)
・・・この三つのバランスをとらせるのが精神分析療法のひとつの目標でもある。

『カウンセリングの理論』pp.56-58

きっと、現実生活の中で折り合いをつけていくためにはフロイトのような捉え方をすることが必要となる。そして、精神分析療法の目指すべきところは、「無意識の意識化」をしていくことだ。

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