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読書感想文 リアルのゆくえ/東浩紀×大塚英志

 一般的なライトノベルの世界は、アニメ・漫画的なリアリズムの中で作られている。漫画の歴史をデータベース化し、サンプリング化し、その情報の中で作られるのがライトノベルだ。だからどうしても情報量の限界に行き当たるし、「表現の限界」にも行き当たる。同時代のマンガ・アニメの文脈にない表現や思想を描けないからだ。すべてがアニメ・漫画的な文脈の中に収束してしまうのが、ライトノベルの弱さだ。
 ライトノベルの表現は、データの圧縮・解凍の発想に似ている。かつての創作は、作り手側がすべての情報を用意していた。現在は読み手側に解凍ソフトがインストールされているような状態なので、描き手は、読み手側が諸々の「約束事」を知っていることを前提に物語を書く。だからこそ限界にぶち当たりやすいし、接続している「社会」がない。
 大塚英志の漫画『多重人格探偵サイコ』を例に見ると、1971年の連合赤軍の事件を背景に描き、その後の偽史を作った上で漫画を成立させている。実際の歴史をコミットさせた作りで漫画が描かれている。現代のライトノベル的アプローチ――つまり読者側のマンガ・アニメの教養を刺激する作り――ではなく、現実の歴史と接続している。だからゆえに、現代のライトノベル的な作りになれきっている読者には難易度が高いという問題を孕むが。

デ・ジ・キャラット 7d575a61

 こうした表現を記号に分解し、サンプリングして再構築する方法は、漫画の世界では古くから手塚治虫が考案している。そうしたサンプリングの手法が2001年当時のアップデート版が『デ・ジ・キャラット』ということになる。その時代の、いわゆる「萌」のパターンのみを抽出して配列させて作り上げたキャラクターが「でじこ」だ。この「萌」のパターンを抽出して再構築する方法が『デ・ジ・キャラット』で提唱され、後の「萌文化」やブームへと繋がっていく。


 しかし創作というのは、もともとある程度そういったところがある。昔の語り物は、語り手の頭の中に紋切り型のフレーズがいくつもデータベースとして入っていて、そこからその時々に合わせてフレーズを引っ張り出して、語り物を創作していた(「オーラルコンポジション」と呼ばれる手法)。いわゆる「昔話」にはいくつかのパターンしかなく、物語ごとにモチーフが違うだけで、実はパターンの組み変えただけのものであり、しかもそのパターンの数はたいして多くないという。
(ソビエトの民俗学者プロップは、ロシアの昔話はパターンを分解すると31種類しかなく、あとはモチーフを変えて再構成したものに過ぎないという考えを発表した。とある古老は500のストーリーを記憶していたが、実は31パターンの物語からモチーフを変えただけのものがほとんどだったから、500のストーリーを記憶することはそこまで驚異的とはいえなかった。現代はそういった時代から物語のパターンは飛躍的に増えたのか……というと、おそらくそうじゃないだろう、とうのが私の考え)
 現代の物語であってもその約束事は変わっておらず、サンプリングされているものが変わったというだけに過ぎない――創作とはそういうものだという見方もできる。

コミケ 東京ビッグサイト

 インターネットが普及する以前と以後では、アニメファンの社会観も変わった。
 その以前は「コミケ」があり、コミケが開催されると全国中に散らばっていたアニメファンが一カ所に集まり、集まることで共同体としての統一性が保たれていた。コミケはいわば、アニメファンによる参勤交代のようなものだった。
(参勤交代は、地方の大名達が物産を携えて江戸に集結し、江戸は地方の物産を受け取り、大名達をもてなすために演芸を発達させた。地方の大名達はそれを見て、江戸の感性を知り、地方に戻って江戸の感性を人々に伝えた。江戸時代の日本は山がちな地形だったので地域ごとの分断が激しかったが、大雑把に「日本」としてのまとまりはこうして作られていったと考えられる)


 ところが今は、コミケとは別に、サブジャンルごとに分かれた即売会が林立している状況になっている。アニメファンの中で「コミケ」という大きな物語・祝祭の意義は瓦解をはじめる。インターネットがあればだいたいのことは事足りる、あるいは充足される状況になり、わざわざコミケに行くという重要性は喪われていった。
 アニメファンはインターネットという便利なツールの代償として、大きな物語なるものを失い、小さく小さく分断化していくことになる。
 と同時に、アニメファン達は「物語られること」に耐えられなくなっていく。ギャルゲーでは物語なんて誰も読んでいない。ギャルゲーのユーザーはものすごいスピードでリターンキーを押していくだけで、裏を返せば読み飛ばしでもわかるようなものしか書かれていない(で、エロいシーンが来るとオートモードにする)。
 物語に定型文しかなく、効率化した「感動」の仕組みしかない。物語がそもそもそういうものだとしても、2000年以降はその傾向を加速していくことになる。
 吉本隆明は吉本ばななの小説を「マクドナルドのハンバーガー」と評した。吉本ばななも、現代の物語も、まさにハンバーガーのように消費されている。
 エンタメがハンバーガーのようなものになっていくと、受け手達はその背後に「作り手がいる」という意識を薄れさせていく。もしかしたら、何かのPCゲームのように「自動生成」で作られていると思われているのかも知れない。


 その一方で、作り手側も誰が誰なのかわからなくなっている。ギャルゲーのスタッフリストを見ても、名前が「生波夢」とか「マグロ皇太子」とかになっている。ギャルゲーのスタッフは、世界を構築するにしても、自分は匿名的な部分部分のエンジニアとして参加しているという意識になっているのではないだろうか。
 こうした傾向は、「クリエイターのハンドルネーム化」も絡んでいる。pixivで描き手の名前を見ても、パッと見で読めないし、そもそも名前に見えない名前も多い。メディアに出るときはその名前が音読されたりするが、やはり耳で聞いてもピンと来ない。クリエイターが自身で存在を記号化させている。
(私も「とらつぐみ」なんぞ名乗ってるし……)

 ところで、当時のとあるドキュメンタリー番組で、「多重人格」の女性が紹介されていたそうだ。その女性は20人の人格を持っているのだが、ある人格の名前が「リャンリャン」とか、アニメの名前みたいなのが付けられている。人格の設定も、すべてが綿密に練られているのではなく、2、3行程度の雑なものも結構ある。多重人格の設定自体、参照物がどうやらアニメらしいのだ。マーケットが人格を提供している。
 自我の形成に社会がどのように影響するか……という一つのサンプルであろう。
 60年代頃、「手にはジャーナル、心にマガジン」という言葉があった。サブカルチャーと呼ばれる文化と政治、つまり“社会”が一つの場所にあった時代を示している。これが後の時代に分離していき、“差異化”が進んで行った。サブカルチャーコミュニティの“社会の喪失”である。そこで若い世代は、人格の形成をする場合に、漫画やアニメを参照するようになっていった。

 という話でピンと来たのだが、おそらく「中二病」の概念は、人格の形成に漫画やアニメを参照するという思考から生まれた世代の産物ではなかろうか。ここを突っ込んで考えていくと、ある世代から自分が接している以上のコミュニティや周辺世界のイメージを、漫画から得ている……という時代に入ったということだろう。「社会」のイメージを漫画からしか得ていない。ある時代から、奇妙に「中二病」と呼ばれる人々がポコポコ生まれてきた理由も、この辺りから推測できそうだ。

 松田聖子の娘に、SAYAKAがいる。SAYAKAはアイドルとしてデビューするのだが、歌詞もサウンドもすべて松田聖子のものをサンプリングしてつなぎ合わせただけ。顔も松田聖子と神田正輝を合成したような顔で、声質は松田聖子そっくり。80年代ポップカルチャーが作り上げたものをデータベースにして再構築したものがSAYAKAだった。
 アニメも似たような状況下にある。アニメが創造的だったのは80年代から90年代までの間で、その後はその以前が作り上げたデータベースからサンプリングして、合成したに過ぎない。そこから、「萌」が抽出されて、「美少女もの」が創造された。

 90年代末という時代はやはり日本の娯楽カルチャーにとっても一つの分岐点だった。90年代後半にはあまりにも多くの事件があった。1995年1月に阪神淡路大震災があり、同年3月に松本サリン事件、97年に神戸連続児童殺傷事件が起きた。
 1999年の「ノストラダムスの大予言」が実現せず、何事もなく新世紀を迎えたが、こうした事件を経て、虚構と実社会はなにか「冷めた」ような気分になって分離をはじめた。
 オウム真理教の思想には、現実に対する偽史の概念があった。現実の社会が背景にあるが、しかし虚構が少しずつ加わっていく。例えばオウム真理教が開発した空気清浄機は「コスモクリーナー」といった。ご存じ、『宇宙戦艦ヤマト』から来た言葉だ。オウム真理教は現実と虚構をごちゃ混ぜにして、やがて何が現実なのかわからなくなり、ついには毒ガスを撒き散らすことを正義だと思い込むようになっていった。
 神戸連続児童殺傷事件の犯人こと「少年A」も、現実と、自身の妄想した現実の端境がわからなくなり、そこにサディスティックな性の妄想が絡んで、やがて凶行に及んでしまった。
 そうした事件を通じて、作り手達は自分たちの作ろうとしている虚構に対し「冷めた」目で見るようになっていった。

涼宮ハルヒの憂鬱 2期イメージ

 2003年『涼宮ハルヒの憂鬱』が発表され、大ヒットになる。主人公の涼宮ハルヒは冒頭から「ただの人間には興味はありません、この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」と宣言する。2000年代以前の虚構と、2000年以後の冷めた感性の端境期に生まれた作品であり、それを象徴する台詞であった。
 2000年代前は社会という「大きな物語」が確かにあったが、2000年という境界を経てその感性は遠ざかっていき、それ以降の世代はデータベースで戯れるようになっていく。それはそれだけアニメ・データベースが芳醇になった証ともいえるが……。
 それ以降のアニメファンは、データベース化されたものから自分が好きなものだけを集めてカスタマイズして喜ぶようになっていく。感動の自動化……つまり「動物化」へと向かっていく。

 現代漫画史を語る上で絶対に欠かせない大作家といえば手塚治虫だが、その手塚治虫も戦後的なトラウマの産物から作品を生み出していった。敗戦という大きなトラウマと、その敗戦をもたらした大国が生み出したディズニーに対する崇拝とコンプレックス。それに乗り越えようと、取り入れようとして、手塚漫画は飛躍していった。
 当時の敗戦コンプレックスは手塚治虫特有のものではない。宮崎駿も、東映動画入社時の面接で「米帝(ディズニーのこと)打倒!」を目標に掲げていた。
 漫画は戦前と戦後を較べてみると、やはりそこに質的な差異が存在する。どうしてその差異が生まれたのか、その端境に何があったのか。それはアメリカのサブカルチャーだ。戦後という時代を通じ、あるいは高度経済成長期にアメリカのサブカルチャーが日本化していくことで、現代のアニメコミュニティが生まれていった。漫画はアメリカサブカルチャーの洗礼を受けて変質し、アメリカナイズ化し、そして現代にいたり、日本のアニメがアメリカでヒットしている。なぜ日本のアニメがアメリカでヒットし得るのか、それはアニメは一度アメリカナイズ化されていて、それを洗練させてアメリカに戻っていったからだ。

本書の感想

 まず注釈を入れなくてはならないのは、本書は「大塚英志」と「東浩紀」による対談集ということ。でもいつものように要約して紹介するとまとめにくいという事情があって、対談形式のものをひと連なりの文章に変更した。すると一度私の体内を通るわけだから、実際の本にはないいくつもの「付け足し」が乗ることになってしまった。実際の本には「参勤交代」の話や『涼宮ハルヒの憂鬱』の話などは出てこない。実際の本を読んでも「書いてないじゃないか」という部分はご容赦を。

 ここからは私の感想文。
 まず2000年代以降のアニメは創造のフェーズではなく、その以前に作られた形式をデータベース化し、サンプリング化し、それを再構築していた……という話。
 当然ながら、作り手はみんな意識しているはずだ。「萌え絵の描き方」みたいな本をいくつか読んでみたが、「萌キャラ」特有のパターンはその中で提示され、そのパターンの組み合わせてキャラクターができる……という方法論が示されているからだ。私もそれを理解しているから、私が絵を描くときにはまず脚本を書き、その脚本に対してはこの絵柄が相応しかろうという「逆算」から成り立っている。
 私の場合、私固有の絵柄や手癖というものがないから、絵のスタイルを変えようと思ったらいつでも変えることができる(無茶なくらい画力が必要な絵柄ではない限り)。こういうのは、私が元来絵描きではないからこそできるやり方だ。
 こういう私のようなやり方は、私しかできないのか……というと当然ながらそんなわけはない。アニメーターのほとんどはできる。作品に合わせて絵柄や線の密度、抽象度をコントロールする。その作品にとってどんな絵柄が相応しいか、逆算の発想で絵を作り上げていく。
(たぶん、絵の描き方はアニメーターと漫画家とアプローチの仕方が異なるのだと思う。アニメーターは逆算の発想で絵を作るが、漫画家は内面的なものから絵を作る)

 どうして私たち世代の絵描きがそのようにできるか、というと、それは潤沢なデータベースがあるから。引用し、構成を変えるだけで無限にキャラクターが作れてしまえる。あるときからアニメキャラクターに「オリジナリティ」は失われていった。
 では現代世代の絵描きに、その作家独自の固有性を持っているのか……。それは正直なところ難しい。固有性を持っている人もいれば、持っていない人もいる。私は持っていない方。持っている人でも、その特徴はごく希薄だ。pixivの色んな絵師の絵を並べてみると、特徴を拾えない人が多い。それに多くの実力ある絵師は、自分が売り出している個性を消そうと思ったら、いつでも消せるはずだ(「絵柄」は商売道具なので、それを進んでやる人はいない)。
(私も特徴を拾えないほうの絵描き。もし私が別の絵師のスタイルをコピーして描いたら、誰も私の絵だと気付かないだろう)

 荒木飛呂彦先生曰く、「漫画にとっていい絵とは、上手い下手ではなく、一瞬でその漫画家とわかる絵だ」と語っているが、現代の漫画家・イラストレーターの中でそこまで固有性を発揮できている人は少ない。本書では「もしもこげとんぼが筆を折っていて、違う人が描いていたとしても誰も気付かない」というような話が出てくるが、確かに誰も気がつかないだろうし、誰も気にしない。どうしてそこで誰も気付かないのかというと、私世代の絵描きは、一度誰かが描いたものなら、いくらでも再現可能なくらい、練度が上がっているからだ。少々難しいキャラクターデザインのアニメキャラだって、ほとんどの原画マンは再現できてしまう。

本 押井守・世界の半分を怒らせる 一部

 押井守は『世界の半分を怒らせる』というコラムの中で、『エヴァンゲリオン』をこのように評した。
「ひと言で言うと『エヴァ』という作品は、まるで明治期の自然主義文学の如き私小説的内実を、メタフィクションから脱構築まで、何でもありの形式で成立させた奇怪な複合物であります」
 私はこの話を聞いて「あ、その通りだ」とものすごく納得した。確かに『エヴァンゲリオン』は「何でもありの形式で成立された奇怪な複合物」だ。
 でもこの意見は、庵野秀明以後世代全体に対しても同時に言える話なんだ。なにしろ私たちは漫画・アニメにどっぷり浸かってきて、そこで美意識や諸々の作法を学んできてしまったから、それを再現することしかできない。そこから一歩外れた新しい表現に挑戦することができない。えんえん、昔のアニメーターやアニメ演出家が作り上げたものの掌の中で戯れることしかできない。
 だいたい、アニメの表現なんてものは、宮崎駿や高畑勲といった世代の人達が作ったもの。アニメ絵のうまい見せ方の話でいえば、ほとんど高畑勲が考案したもの。私たち世代はみんな、あの辺り世代の掌の上で戯れているだけしかできない。

 ところがこの押井守の意見は、その当時なぜか炎上した。なぜ炎上したのか、どうにもピンと来ない。やはり有り体に言われることに対する反感だろうか。

 1990年代という時代は、世代とカルチャーが同時に「社会」を失う時代だった。私もその時代の体験者だったが、急速に人々が「冷めていく」感じがあった。その前の世代では、トンチンカンでもなんでも、どうにか社会についてわかったフリをして語ろうとしていたはずだったが、1990年代を通して社会そのものが冷めていく感じがあった。オウム真理教の事件や、神戸市須磨区連続児童殺傷事件であるとか、社会と結びつく虚構に対し、一歩身を引くようになっていった。
 その直後に出現したのが『涼宮ハルヒの憂鬱』だ。お話としても、2000年代以前の虚構と、2000年以後の冷めた感性がぶつかり合う物語だ。時代の象徴としてこれほど相応しい作品はない。しかも、登場してくるヒロイン、涼宮ハルヒと長門有希の二人はどう見ても『エヴァンゲリオン』のアスカ・ラングレーと綾波レイだ。90年代アニメカルチャーをサンプリング化し、再現した作品だった。
 『涼宮ハルヒの憂鬱』によって2000年以前の虚構が完全に消失し、人々は次第に「萌」で戯れるようになった。データベース化された記号を入れ替え、付け替えをやって、それこそゲームのキャラメイキングみたいな感覚でカスタマイズし、「どこかで見たような」キャラクターばかり作り、それに愛着を注ぐようになっていったし、そうして構築されたものに対して、反射的な性欲すら抱くようになった。

ドラクエ3R

 最近の創作世界の潮流を挙げると、「異世界転生もの」がある。「異世界転生もの」が何をベースにしているかというと、ゲームの世界観から来ている。特に、強い影響下にあるのが『ドラクエ』シリーズだ。若い絵師に「勇者」をキャラクターとして描かせると、みんな『ドラクエ3』の勇者を描いてきてしまう。もはや世代問わず、「典型的な勇者」といえば『ドラクエ3』の勇者をイメージし、そのイメージから離れられないのだ。
 若い絵師にしてみれば、『ドラクエ3』なんて世代ではないはずだから、もしかしたらプレイ経験すらないかもしれない。それでも意識の底にはあの鳥山明が創造したキャラクターが根付いている(鳥山先生は凄い!)。もはや私たち日本人にとって『ドラクエ』シリーズは「集合無意識RPG」と呼ぶべきなのかも知れない。そう考えると、『ドラクエ』の存在感はやはり凄い。『ファイナルファンタジー』ではそうならなかった。
(そういった、勇者が氾濫する時代にあり、そもそも「勇者とは何か?」と改めて定義するために、『ドラクエ11』ではテーマとして掲げられ掘り下げられるストーリーが描かれた)

 異世界転生ものもそこに創造性なるものはほとんどなく、かつてのゲームクリエイター達が作ったものの掌の上で戯れているだけでしかない。『指輪物語』や『はてしない物語』のような名作古典ファンタジーではなく、ゲームの中で作られたファンタジーをベースにしている。なぜあんなにたくさんの人が、手軽に気軽に創作を楽しめるようになったのか? ここに答えがある。あらゆる文法がデータベース化し、多くの人の頭の中にプリセットされているからだ。
 私たちのほとんどは本当の「創造」をせず、かつて作られたものを入れ替え、取り替えでカスタマイズし、そうやって作り上げたものだけで楽しむようになってしまった。もはや誰も「創造性」で審査する者はなく、個々の表現でコント的に面白く描けているかどうか……しか審査基準がない。むしろ、「きちんと創造されたファンタジー」は今時の人には難しいという時代にも入ってしまった。

(余談話。つい先日、オリンピックが開催されて、そこで『ドラクエ』のテーマ曲が使われたことに関して、「ドラクエは海外で売れていない。日本だけ」と指摘する人が多数いたそうだ。この話は私のブログで何度も取り上げているが、『ドラクエ』の海外展開が失敗したのは、ごく初期の話。『ドラクエ8』がヒットとなり、それから『ドラクエ』過去作がニンテンドーDSで発売され、再評価の流れができた。『スマブラSP』でドラクエ勇者が登場したとき、欧米ユーザーもすぐに「ドラクエだ!」と気付いて声を上げた。確かに『ファイナルファンタジー』シリーズほどの歴史構築ができていないので、知名度・支持が低いのは確かだが、「ドラクエは売れていない」わけではない)

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 2017年に、カナダ・アイルランド・ルクセンブルク合作アニメーション映画『生きのびるために』が発表された。タリバーン政権下のアフガニスタンで実際に起きていた男尊女卑を描いた作品だった。
 この作品について、まず“クオリティ”の面だけを見ると、日本のアニメのほうが断然上だ。クオリティだけの話をすると、日本のアニメに勝てる作品は、世界中のどこを探してもそうそう見いだせるものではない。
 ただ、作品が描いているテーマ性……という話をすると、完全に日本は敗北する。なぜなら『生きのびるために』は実際に起きている問題が描かれ、アニメーションとして描かれることで、世界中の人々の啓蒙を促しているからだ。社会問題を人に語らせるような作品になっている。こうした社会と接続したテーマ性を描いた作品は、少なくともここ20年は日本のアニメの中に登場していない。
(「作画だけを見ると勝ってる!」という批判のやり方はかっこ悪い)

戦場でワルツを 640

 少し遡って2008年にはイスラエル制作のアニメーション映画『戦場でワルツを』がある。こちらは戦争を体験した人々のトラウマが描かれている。
 なぜこの作品がアニメーションとして描かれたのか。しかも、まず実写撮影して、それをわざわざロトスコープでアニメーションにしている。それは戦争体験者の現実感を表現するためだった。戦場から戻ってきたけれど、どこか夢から醒めていないような感覚……現実に戻ってこられないような感覚を表現するために、実写撮影をした上で、わざわざアニメーションにしている。
 この映画のラスト、(ネタバレだが)突如実写撮影のシーンが登場して、そこではじめて見る者に「現実」が突きつけられる……という構造だ。映画撮影されたものだから、事実の映像と虚構に差がない……という指摘は正しいが、しかし冒頭から続いていたアニメーション映像からいきなり実写撮影が出てくると、それなりのショックがある。そこで、戦争体験者が何を見てきたか、初めてわかる仕組みになっている。
 果たして日本のアニメに、ここまでの意図を持ってアニメーションが作られたことがあっただろうか?

エヴァンゲリオン アスカ&綾波 201

 宮崎駿にしても高畑勲にしても富野由悠季にしても押井守にしても、現実との接続を意識して虚構を作っていた。ああいった時代のクリエイターは、そういう作り方をしていた。でも庵野秀明以後世代からは、社会なるものは消失した。あとはその前世代が作ったものから抽出再現の繰り返しをするようになっていった。
 『涼宮ハルヒの憂鬱』の頃になると、涼宮ハルヒはアスカ・ラングレーだし、長門有希は綾波レイのコピーだったけれども、それで「パクりじゃないか?」と怒る人はもはやいなかった。この頃には時代的に過去作品の抽出再現したキャラクターがあちこちにいたから、今さらあの程度の「引用」で「パクリだ」と怒る人もいなかった。
 過去に作られたキャラクターはアニメファンの中で共有され、ガワを変えてどんどんキャラメイキングの素材として放り込まれるようになっていく。今時、アスカっぽいキャラと綾波レイっぽいキャラはどんなアニメの中にも偏在している。この状況に対して、どうこう言うのは「今さら」な話なんだ。

2000年代以降の作家達は、作るにしても社会的に無害な、なににも接続していない虚構を作るようになった。娯楽はそういうものではなくてはならない……という「怯え」を作り手側は持つようになった(どうしてそんな怯えを持つようになると、何かしらで騒動が起きると作品自体がお蔵入りになってしまうからだ。作り手達はそれを一番に恐れている)。それで細田守は家族の神話を作り、新海誠は恋愛の神話を描き続ける。神話であるから、細田守も新海誠も世代や国境を越えるエネルギーを持ち得るのだけど、しかしそこに接続する社会なるものはない。

 では何を描けば今の時代、社会と接続したことになるのか?
 2000年代以降の潮流と言えば、「ネット右翼」がある。じゃあ、ネット右翼的な作品を描けば、社会と接続したことになるのか?
 そうはならないだろう。だいたいネット右翼がやっているようなことは、その時々の「気分」でしかない。アニメ映画の制作には早くても1年、クオリティにこだわったら3~4年はかかる。4年前に一瞬ネット右翼界隈で流行った話題を取り上げたアニメ映画なんて誰が観る? 『生きのびるために』のように、国際的に語られる作品になり得るか? ネット右翼的なものは普遍的な力を持って語れるテーマになり得ないのだ。くりかえすが、ネット右翼は「気分」でしかないからだ。

 そもそもネット右翼的な潮流がどうして起きたか、というと、一旦社会との接続が切れてしまったから、再接続をしようという活動に基づいている。「手にはジャーナル、心にマガジン」の再来だ。
 でも誰もネット右翼的なもののメインテーマを正確に語りをえていない……という印象はずっとある。ネット右翼が問題にしがちな世代間闘争であるとか、上級国民に対するルサンチマン的なバッシングは、私にはどれも「サブテキスト」のように見えている。
 私が一番しっくりきたのは、2011年フジテレビが不自然なくらい韓流推しをはじめて、それに対するカウンターとしてデモが起きた事件……の後に、中心メンバーの一人が「彼女ができたから」という理由で活動を終了したこと。
 「彼女ができたから」という理由はずっこけたけれども、結局の所、それがメインテーマだったんだ。あのフジテレビ抗議デモに集まった人々というのは、社会を失った人々だった。仕事もなければ、彼女もいない。全員が社会との接続を失った孤独な人々。ああいうふうに集合して同じ目標を持ってデモはできるけれども、その時一緒になった人達同士で友達になろうとは思わない。友達になるということすら怖い。またそういう人々が巨大権力である報道に対する一揆だった。ある種の、大人になれなかった子供達によるオイディプスコンプレクスだった。

 どうして現代人はそこまで分断してしまったのか。そうした社会を作ったのが団塊世代じゃないか……という怒りだけが共有されている。団塊世代は昭和後期の文化を創り上げたけれども、それはすでに瓦解寸前かすでに崩壊後。でも価値観だけが未だに団塊世代社会のまま。私たちはディストピア社会の中にいるけれど、なまじ物質が豊かであるから、崩壊に気付かない……気付かないふりをし続ける。
(世代間闘争には「こんないい加減な社会を残しやがって」みたいな怒りがまずある。それを上世代に認識させたいが……団塊世代達はいまだにネットで交わされているような話しを全く知らないし、たぶん知らないまま人生を終えてしまう)

 全員が孤独に陥り、その孤独に陥っている状況を社会が作っている。誰もそれをメインテーマとして語らないし、創作の世界でそれを語ろうともしない。
 でも実は、それが創作のメインテーマになりかけた瞬間というものはあった。それが『エヴァンゲリオン』だった。私の知る限り、あの作品によって初めて14歳の心象が掘り下げられたと感じている。『エヴァンゲリオン』の時代は団塊世代の勢力が最も強力だった頃で、メディアはすべて団塊世代の言論に制圧されていて、そこから一方的に若者世代や子供世代に対して「お前らはこうなんだろ」「お前達はこういうことを考えているんだろう」と思考や価値観すらも押しつけられていた。恐ろしいもので、私たちはみんな、そういう大人達の言う言葉を「そうなんだろう」と信じて、自分の内面を……何か違和感あるな……と思いながらも言われたとおりに規定していた。既に書いてきたとおり、「社会が人格を提供する」のだ。だから若者達は自分たちの悩みに対する答えを、社会から与えられたとおりに考えて、その結果解消できず抱え続けた。
 そこに登場したのが『エヴァンゲリオン』だった。この作品によって、私たちは初めて、自分たちの内面と寄り添ってくれる創作が登場した……という気持ちになれた。『エヴァンゲリオン』について、後の人々が観て評価を誤りがちになるところはこの部分で、確かに『エヴァンゲリオン』は同時代の作品を俯瞰して、その中でも突き抜けた超クオリティのアニメだったが、社会現象と呼ぶほどにブームとなった理由は、その時代の少年達の内面に寄り添った初めてのアニメ作品で、そして唯一の創作物だったからだった。みんな碇シンジの心境は、自分たちと同じだと思っていた。

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 ところが『エヴァンゲリオン』は間もなく作品としても瓦解し、その後は『学園エヴァ』となっていく。単にアニメファンの玩具となってしまい、そのキャラクターの複製品がありとあらゆるアニメ作品の中に登場していくようになる。
 『エヴァンゲリオン』は確かに「奇怪な複合物」であるが、時代の心理を開くチャンスを持っていた。しかし『エヴァンゲリオン』はその最終局面で物語を喪ってしまったし、アニメファン達も物語を喪ってしまった。それが、そのまま2000年代以降のアニメの形を決定づけてしまう。

 それが25年の時を経て2021年、終わらない物語となっていた『エヴァンゲリオン』がまさかの完結を迎えた。「エヴァンゲリオン完結」の話は、また別のところできちんとしよう。『エヴァンゲリオン』について語りたいことは山ほどある。

 さて、本書『リアルのゆくえ』は中盤から大塚英志と東浩紀との大喧嘩に発展していき、しばらく議論が完全に停滞していく。間の50ページくらいは飛ばして読んじゃったほうが良いかも知れない。
 大塚英志が東浩紀のなにに怒ったかというと、東浩紀はそれまで評論を書いてきたが、その評論は現実社会の何にも接続していないと発言してしまったからだ。あれだけの評論を書いていて、社会に対して何も働きかけようと思っていない。現実に対する啓蒙でもなければ、カウンターですらない。そうすると大塚英志からすれば「お前さん、じゃあなんであんな本書いたんだよ?」という話になる。『動物化するポストモダン』にはなんの意味もございません、と証言したようなものだからだ。
 一方の東浩紀はそういう社会との接続に対して、そもそものリアリティを感じていない。社会というイメージが根本的に欠落している。だからその後50ページにわたって話が平行線になっていく。
 どうして東浩紀が社会に対する意識が欠如しているのかというと、それが2000年代の若者の意識だったからだ。『動物化するポストモダン』みたいな本を書きながらも、心象は2000年代の若者と実はそう変わらなかったのだ。自分が書いたものと現実との関連性がイメージできていなかった。それは社会との接続を喪っていった「美少女アニメ萌え」の心象と、実はそう大差なかったわけだ。
 そんな東浩紀がどうやって社会との接続を再認識したのかというと、2008年秋葉原通り魔事件。あの事件を通じて、「オタクの代表者」たる東浩紀はようやく自分が社会と接続し、責任ある立場であるという認識に達した。
 ではそもそも、どうして加藤智大はわざわざ秋葉原という場所にトラックで突っ込んでいって、通行人を殺戮していったのか? それがここまでに書いてきたようなこの時代特有の「孤独感」がある。その怒り、ルサンチマンが自分が好きだった場所に逆流した。社会との接続を喪った、「私たちのような人」が事件を起こしたのだ。世間的には「オタクが起こした事件」という認識だが、そんな薄っぺらい話ではない。私たち社会全体が持っている「歪み」の、ある一現象があの事件であるのだ。

 私たちは空虚な時代に生きている。都市に行くと、無数の人で埋め尽くされている。でもみんなどこにも誰にも繋がっていない。ただ人が集まっているだけ。都市という場所にも、人同士の熱気や活気がなく、ただ乾いたコンクリートがあるだけ。
 そんななか、アニメファン達は一時の温もりを求めて、物語なき、萌キャラクターのいる世界に夢を見続ける。そんな欺瞞をいつまで続けるのやら……。


 って、今回の感想文、やたらと長くなったね。こんなふうに、読んでいるといろいろ考えることが出てくる……という本だったと思っていただければ。


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