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他人からどう思われるかについて
ずっと、ずっと、親、姉弟、他人、友人、先生、同級生、異性、同僚、先輩、後輩、上司、、、まわりの目を気にして、生きてきた。
どう思われているか、悪口を言われていないか、好かれているか。能力を評価されたい。ほめられたい。良く思われたい。
ほめられても、優等生でも、成績が良くても、絵が上手でも、賞をもらっても、自分が自分を嫌いだったし、人からどう思われているか、年がら年中、四六時中、24時間、365日、ずっと、不安だった。
緊張する。不安になる。ストレスを感じる。疲れる。
ごく最近のこと。ある日、ふと、まわりからどう思われるか、評価されるかよりも、自分が心地よいと思う、自分の行動を選ぶことにしてみた。
そうしたら、緊張と不安にまみれていたその時間は、穏やかで健やかな時間になった。
あれ?
こんなに変わるものか。
他人軸、自分軸というけれど、他人軸は、他人からの評価で、自分軸は、自分の評価だと思っていた。
んー、それだと自分責めから逃れられない。
だったら、評価、じゃなくて、自分が今、どういう気分でいたいのか?と考えてみた。
イライラしたくないなら、イライラする原因を手放せばいいし、気分は自分で選べる。
気分は自分で選べる!?
今まで生きてきて、そんなこと、一度も、考えてみたこともなかった。
いつだって、気分は思い通りになったことなんてなかったし、イライラするのは、イライラの原因にイライラさせられているからだとおもっていた。自分が選んでいることではなく、避けられないことだと思っていた。
そう、不安も緊張もストレスも、原因がある。
そして、わたしたちは、その原因を、受け取っても、手放すことができる。物理的に、もしくは、精神的に。
それを知らなかっただけで、そうなんだって知った。
他人からどう思われるかばかりを考えていると、当たり前かもだけど、他者から評価されることは、多少うまくなる。それを考えないよりは、うまくなると思う。
でもね、でもね、そればかり考えていると、めちゃくちゃ疲れる。でも、どう思われるかを気にするのが当たり前になっていたから、それが原因で疲れていることには気づいていなかった。
子供の頃に、良い子でないと親から愛されない(と思っていた)ように、誰かから評価されないと、自分には価値がないと思っていた。
でも、気づいてしまった。わかってしまった。
生きることは、評価されることとは関係ないってこと。
他人がどうあれ、自分は自分。かっこいいよね。そうありたかったし、我が道を行ってるつもり。でも、常に人の目を気にしていた。人と違うアイデンティティを探していた。
人の目を気にすることは、決して悪いことではない。
大切なのは優先順位。
人の目を気にすることが、自分が気分良く過ごすことより優位になれば、日常はしんどくなる。
そして、他人に認められることが優先順位的に第一になってしまうと、自分の気分は後回しになる。
厄介なのは、本当に他人に認められているかどうか、実際には、わからないこと。
他人の真意なんて、どんなに考えても、どんなに仲が良くても、本当の本当には、わかりっこない。そこ、別にわからなくて良くて、それにこだわり始めると、負のループに入ってしまう。
どうせわからないなら、とっとと手放して、他人のことはさておき自分がどうしたいのかを第一に考えるようすれば、心はぐっと、楽になる。
当たり前のようで、これが、今までの人生をずっと他人に気を遣って、まわりに振り回されて生きてきた場合、ちょっとばかり勇気がいるかもしれない。
他人より自分を優先することが悪いことのような気がしてしまう。だから優しいと言われるけれど、優しくなんてなくていい。自分に優しくできてはじめて、他の人を思いやれる余裕ができる。
今は、そんなふうに考えている。