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太田達成「石がある」

まるでセラピーだ。ただひたすらに受け入れてくれる。
ジャン・ルノワールとタルコフスキーが出会ったようなありえなさは、ともに過ごす内にいつの間にか心を許してしまうような穏やかな眠気を寄越す静謐な多幸感に満ちている。
得体の知れない安心感に少しだけ不安な時が訪れるのは、見知らぬ闇の中で本当の孤独を知るときなのかも知れない。そのときばかりは自由の高揚感は薄れ、独りの虚無感に呆然としてしまう。
「ピクニック」と「ストーカー」が溶け合うということは、人は人に出会うことができるという幸福と不幸、希望と絶望の表裏なのだ。出会いがあれば別れがあるという至極当然の帰結。時間を費やして出会えた幸福を持ち帰るのか、時間を潰しただけの別れを不幸と嘆くのか。
しかし少なくともそこに「石がある」なら、あとは犬がいるなら、わずかばかりでも明日へ前を向くための他愛ない笑顔を作れそうだ。これは東京から来た女性と川の妖精(おじさん)が織り成す「どこかいいところ」へ向かう道なきロードムービー。もちろんそんなところはない。
すなわちエクストリーム・ヴァカンス映画である。ヴァカンスとは旅行ではない。目的を決めるわけでも理由をつけるものでもない。ヴァカンスとは脱出なのだ。現実からの、日常からの、仕事からの、役割からの、生活からの、関係からの、時間からの、場所からの、もしかしたら自らの性格や思考、自分自身からの脱出なのだ。脱出した先に何かがあるかも、それが何になるかもわからないけれど、意味の世界から逸脱して無意味の世界を放浪することは、あらゆる情報の渦から離れてシンプルな流れに身を任せるような、ある種の癒しであることは間違いないからだ。
なぜなら彼女はどこか疲れている。そうは明言されないし何に疲れてるとも言えないけれど、彼女は疲れている。「東京から来た」という一言に内包されるあまりの疲弊と諦めにも似た声にならない叫びは、きっと一度でも現代の東京に住んだことのある人たちならなにか察することだろう。
そして妖精もまたどこか壊れている。いくら川辺に女性が一人でいるからといって対岸からずぶ濡れで川を渡ってくる人間がまともなわけはない。映画はたった一言で女性の過ごしてきた過去を事実で縛ることなく自由に想像させる。映画はたったワンショットで男性の置かれている状況を明示せずに自由に想像させる。
なぜ女性はこの川へたどり着いたのだろう。なぜ男性はこの川で水切りをし続けているのだろう。
でも人と人との出会いは不思議だ。初めはおずおずと敬語から、しかし互いが互いの領域とでも言えるようなもの、誰に言えるでもない事情に踏み込んでこないと少しでもわかり始めると、たどたどしいタメ口で、いわば互いの距離感を探り合う。あえて仲良くなろうと詰めることが仲を作るのではなく、いわばその探り合いの過程こそが見ず知らずの人と人との仲を取り持っていくのだ。
そしてたぶん、素知らぬ人が素知らぬ人に出会う以上は、行動の、時間の、そもそも関係の無意味さだけが互いの拠り所となる。水切り、石積み、砂崩し、枝運び。名付けてしまえば本当にどうでもいい遊びのなかで無邪気に笑い合う女性と男性の言葉なき語らいのなんと心地のいいことだろう。
無意味な遡上を前にして川の深みで渡れなくなった二人が、男性が残念ながら無神経におんぶで川を横断することを提案して、女性が恐らくは赤の他人の男へのおんぶに戸惑ってしまったとき、一時の崩壊を目にすることはとても意味的だ。
我に返るとはこのことだと思う。無意味に川を上ることを楽しんでいた二人は、少なくとも女性は、川を渡るという意味を作ってしまったのだから。
経験したことはないだろうか、目的もなく延々とやっていた無料ゲームを進めていくうちに課金してまでやるような目標が出てきてしまって急に虚しくなるようなことが。
女性が帰ろうとバスを待ってしまうのも至極うなずける。意味の世界で生き続けてきた人にとって無意味な世界は癒しだけれど、無意味であり続けることもこの世に立脚した存在であることを自ら忘却してしまうような耐え難いことなのだ。
まるで四六時中ツイッターに入り浸っていた中毒患者がその情報の奔流にうんざりしてログアウトしたのに数十分経ったら誰が何を言ってるか気になり始めて再びログインしてしまうように。
では何が彼女を思いとどまらせて、女性をまた川へ戻すのだろう。バスが止まってくれなかったのかもしれないし、行き先の違うバスだったのかもしれない、あるいは単にまだふらつく時間が残っていると計算できたのか。
きっとすべては偶然の産物だ。意味なき道を上っていって、またも意味なく来た道を戻っていく、これはまるで無意味な行きて帰りし物語なのだとわかってくる。たぶん川の道のりも彼女の旅路も。
無意味に行って帰ってくるだけの道のりでは拾って持ち続けている枝でさえ意味を持ってしまうから危険だ。最初は持っているだけでよかった。あってもなくてもどっちでもいいがあるとどうでもいいことに役に立つこともある。
しかしなぜ持ち続けているのかなんて考え始めてしまったらそれこそが重みになってしまう。彼女がそれを考え始めたわけじゃないけれど、しかし投げ捨てるくらいが丁度いい。
人間もまた枝っきれと同じだ。無意味な関係性はひとときの楽しさを作るが保ち続けることによって関係の意味は勝手に生まれて重みとなる。
おずおずと探り合うようなやりとりをすることで互いの中には入らず、互いの中に入らないということは互いの重みにならないことで維持されていた無意味さが、唐突に距離を詰めてくるような一瞬の馴れ馴れしさであっけなく崩壊する場面の緊張感はこの静寂たる作品のなかで最もエキサイティングにひりつくシーンではないだろうか。
そしてもう日も暮れる。人間は心のある動物だから決して時間の流れに逆らうことはできない。日常の意味性から脱却して無意味に川の流れに逆らってみてもやがて誰もに夜は来るのだ。
一緒にまだ石を探すのか、家に泊めてもらうのか、何をするにしても夜をともに過ごしてしまったら赤の他人たちは無意味なままではいられない。
意図して拒絶するわけではないけど、ふらり流れてふと過ごした時間だからこそ、別れは必然なのだ。そもそも二人は独りなのだから。
誰もいない暗がりの家。本が山積みの片付いてない部屋。親なのか嫁なのか誰かわからない仏壇。川で濡れた靴下はもう絞っても水が出てこない。潤った心はもう干上がってしまったみたいだ。ものはたくさんあるのに空虚な室内で男は虚空をじっと見つめている。
だから無意味に楽しかった今日という特別な日に言葉という意味をつけるのだろう。自分がした何でもないこと。大したことでもない遊び。出会った女性は名前さえ知らない。でも書いていけばそれはまるで特別なことのように人生の布石となる。きっと何度も思い出す。そして男はまたそんな特別を探しに川へ向かうのだろう。
では女性は?
男との旅路は楽しかったかもしれない。でもそこにはやっぱり違和感も恐怖感もあっただろうことは想像できる。男の距離感のバグり方は女にある意味の現実を思い出させてしまう。おんぶの提案。隠れておどかしてくること。何気ない時間に心が解放されても、誰も自分自身の身体性からは逃れられない。見ず知らずの人に密着することに嫌悪感とは言わないまでも戸惑いがないわけがなく、また黄昏どきに誰もいない川辺でおどろかされてビビらないわけがない。人畜無害な何でもない他人なら一緒にいられたのかもしれない。でも生まれた拒否感は相手に感じる重みだ。さよならは必然のように思う。
彼女だってきっと一人で生きていけるれっきとした大人なのだから。扉の空いていたガソリンスタンドでスマホを充電して眠れたことは僥倖だ。それはきっと日常を脱出できたヴァカンスから日常へと戻っていくためのルーティーン。人はまた文明の利器を使う動物だから。
明かりがなくなった夜は怖いし、夜が来れば寝るもの。朝に起きてガソリンスタンドに飼われている犬を散歩に出かけさせて、そのことをカレンダーに書くとき彼女は今日が何日かをしっかりと確かめる。川を歩いているときには気にしなかった時間をチェックして、脱出した日常へと戻るために今日という現在位置を確認するのだ。
だからこれはヴァカンス。日常から脱出したのなら、いつかまた脱出した日常へと帰っていく時がくる。「大丈夫です」や「すみません」ばかり口にして、なぜここへやってきたのかと聞かれれば「仕事です」とあいまいな表情で答えていた女性は、何でもない時間を誰でもない誰かと過ごして、また意味のある世界へと帰っていくのだ。
きっと誰に伝えることもないまま、自分だけの時間、たった一日なにか自由に、全てから解放されたようなひとときとして、心のなかに置かれ続ける動かざる重石のように彼女を彼女に繋ぎ止めるのかもしれない。
まだ一人で石を探し続けている男を電車の中から見かけて微笑む彼女の笑顔は、少し沈みがちで陰気だった当初と違い、晴れ渡る空のように紛れもない強かさと健やかさを画面いっぱいに伝えてくれる。ヴァカンスは解放の喜びを知る機会だ。
魂の自由を知ってるものは不自由な人生をきっと懸命に生きられることだろう。行き先のわからなかった彼女の人生のページは、空白の時間によってまた書き綴られていく。
映画もまた人によって誰かのヴァカンスであるのかもしれない。誰もが四六時中意味のある現実を生きられるわけじゃない。ときには無意味な時間が人の命をより強く燃え上がらせる。
人生には「石がある」のような映画が必要なのだ。

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