てらり

日常の中でふと思ったこと、感じたことを気ままに書いています。 とても個人的なことばかり…

てらり

日常の中でふと思ったこと、感じたことを気ままに書いています。 とても個人的なことばかりですが、読んでいただけたら嬉しいです。

最近の記事

“代わりなんていくらでも”が成り立たない幸せ

2年ほど前に書きかけて下書きに保存されていた文章、 今読み返してもなるほどなあと思うところがあるので、投稿してみる。 2ヶ月前に会社を辞めた。 思ったよりもあっさりとわたしの存在は前の会社からなくなり、思ったよりもすんなりと、新しい会社がわたしの居場所となった。 わたしがいなくなった後の会社がどうなったかは分からないけれど、きっとあっさりとそのまま日々が続いているのだろう。 人がひとりいなくなるって、案外そんなもんなんだろうな、と思う。 「代わりなんていくらでも」で

    • ひとつの別れに思うこと

      随分と記事を書くのが久しぶりになってしまった。 何か下書きに残していたかな、と開いてみたら、この一文が上にあった。ああ、そうだこの時にはもう、とちょっと苦しくなった。 先日、恋人とお別れをした。 このまま一緒にはいられないな、と思いながらも、その事実を認めたくなくて、きっと頑張れる、諦めたくない、という気持ちが邪魔をして、その時をどんどん後ろ倒しにしてしまっていた。 下書きを書いていたのは11月だった。 土砂降りの雨の中、自分は肩をびしょびしょに濡らしながら私が濡れない

      • 泣きながらお茶漬けを食べた夜

        泣きながらご飯を食べたことのある人は、生きていけます。 大豆田とわ子にハマり、自然な流れで見始めたカルテットに出てきた有名な台詞。これを聞いて真っ先に頭に浮かんだのは、泣きながらお茶漬けを食べたアメリカでの留学生活の二日目の夜だった。 初めての海外生活、初めての実家以外での生活。だだっ広いスーパーの中で何を買えばいいか分からずにとりあえず買ってみたベーグルが全然美味しくなくて、いざというときのために持ってきたサトウのごはんとお茶漬けを二日目にしてあっさり解禁した。 あま

        • それなりの人生を愛したい

          大人になると、気づけば変わらずにずるずると同じ環境に居続けることもできるし、変わる気がなくても変わらざるを得なくなったり、自ら行動することで変えることも、なんかもう何でもあり得るんだな、と今更になって思う。 例えば、パートナーが海外の大学院に進むことになり、日本での仕事も生活も捨てて配偶者ビザを取得してついて行った友人がいる。 「やむを得ず」の判断で今までの生活をまるっきり捨てていくことは選択肢がないように見えるけど、それだけのものよりもこの人と一緒にいたい、と思えること

        “代わりなんていくらでも”が成り立たない幸せ

          そよ風に靡かれて

          転職をすることにした。 新卒で入った会社で働き始めてからはや4年。入社してから常に頭の中にあった「いつかは転職しよう」の気持ちを、ついに行動に移すこととなった。 思っていてもいざ行動を起こすとなると中々躊躇してしまうもので、「めんどくさい」とか「変化への恐れ」とか、「とはいえこんないいところもあるし…」みたいな気持ちが付き纏っていた。 周りの友人が転職し出していたり、いつまでも変わらない自分に焦りを感じていながらも、一歩を踏み出すための一押しを待っていたのかもしれない。

          そよ風に靡かれて

          自分の弱さに向き合うこと

          わたしは、自分の弱さを他人に見せることが苦手だ。 今日は疲れた〜〜とか、仕事でこんなことにムカついて〜とか愚痴のように話すことはできるけど、それは自分をイラつかせた「他人」の話だから簡単に出来るわけで、それが重大なミスを犯した「自分」の話になった途端誰にも話せない。 口に出せる悩みはそれほど大したことないか、もうすでに一番辛い局面を乗り越えたからこそペラペラと話すことができるのだ。 思い返せば、人生で自分に原因があってうまくいかなかったり落ち込んでいる時は、誰にも話すこ

          自分の弱さに向き合うこと

          自己肯定なんて、大袈裟なこと

          「自己肯定感」という考え方は大事だなと思うけど、「肯定」という言葉には少し違和感がある。 「肯定」の反対は「否定」になってしまうから、そのどっちかに寄らないといけない感じにちょっとプレッシャーを感じるのかな。 わたし自身、いわゆる自己肯定感は比較的高い方なんじゃないかと思う。もちろん自分の嫌いな部分も、情けない部分もたくさん知っているけど、ざっくりと「わたしはわたしでいることがそれなりに気に入っている」と感じることができているので、少なくとも低くはないよね、と思う。 で

          自己肯定なんて、大袈裟なこと

          「ありのまま」であり続けること

          世間的な「こうなるべき」の姿にどれだけ近づいているか、という指標ではなく、みんなそれぞれ「自分のこうなりたい」姿にできるだけ近づいてく、という「一人一人の最大幸福」「自分にとっての幸せの最大化」みたいなものを叶えられたら素敵だなと最近思う。 自分の心の持ちようで、「わたしはこれでいい」と思えればそれでいいのかもしれないけれど、どうしたって世間の見えない(実際には嫌ってほど見えている)圧というか、「えっそんなことしてるの?」「それよりもこうするべきじゃない?」みたいな評価の目

          「ありのまま」であり続けること

          赤と黄色のチューリップ

          「はじめて女の人にお花を贈った」と言って恋人が選んでくれたのは、ピンクのスイートピーと、白いかすみ草と、赤と黄色の混ざったチューリップだった。 赤いチューリップの花言葉は「愛の告白」らしくて、「わたしの好きな色だし、イメージに合う黄色」と合わせて、わたしへの愛を込めて選んでくれたという。 ひらひらと軽やかで可憐な淡いピンクのスイートピーと慎ましくちらちらと華を添えてくれるかすみ草に囲まれた、赤と黄色の愛のチューリップ。 好きな人が自分のために選んでくれたお花が、こんなに

          赤と黄色のチューリップ

          花の名

          「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。」 と言ったのは川端康成で、 「女の子に花の名前を教わると、男の子はその花を見るたびに一生その子のことを思い出しちゃうんだって」 と言いながら教えなかったのは、「花束みたいな恋をした」の絹ちゃん。 教えようとも教えないようにとも意識していなかったけど、気づいたらうっかり教えてしまっていたのは、わたし。 ミモザ。 春の訪れを知らせる幸福の黄色いお花。 3月8日は「ミモザの日」と呼ばれていて、イタリ

          ゆるり、ふわりを纏って

          人を形容する時に使われる「ゆるふわ」には悪意が込められているのではないか?とふと思う。 例えば、彼の写真を誰かに見せたときに言われる「あ〜ゆるふわ系なんだ」 「バリキャリOL」に対して使われる「ゆるふわOL」 世間一般的に、「ゆるい」も「ふわふわしてる」にもどこか蔑みの意が含まれているように感じてしまう。 「時間にゆるい人」「財布の紐がゆるい」「いつまでもふわふわして…」 というのも、わたし自身、割と他人から「ゆるふわ」と形容されることが多い。 雰囲気が柔らかいと

          ゆるり、ふわりを纏って

          感情を最大化させてあげる、という贅沢

          2015年1月3日、20歳のわたしは、NYから留学先のアーバインに帰る飛行機のディレイで乗り継ぎができなくて、急遽アリゾナの空港で手配されたホテルに一人で泊まっていた。 それはわたしにとって人生で初めての「1人ホテル」体験で、天気も悪くてよく知らない土地で無駄に広いツインの部屋にひとりっきりで、とても不安で寂しい夜だった。 当時遠距離恋愛中だった彼氏に寂しくて連絡したのに「1人ホテルも案外楽しいんじゃない?」「孤独を味方につけるんだ」なんて全然わたしがほしい言葉じゃないこ

          感情を最大化させてあげる、という贅沢

          花束みたいな恋に憧れて

          次は「美術館でたまたま同じ作品の前で足を止めていた人」と恋に落ちたい、と思っていた。 あるいは、「好きなアーティストのライブで隣でいい顔をして揺れていた人」とか、「映画館でエンドロールが終わって席を立とうとしたら、隣で静かに涙を流していた人」とか。 自分の好きな作品や空間をたまたま同じように好きでいる人に、惹かれないわけがない。すきなものが同じ人は、無条件で信用できる。この曲がすきな人に悪い人なんていない。この映画がすきな人は、全ての価値観が合うはず… わたしとっては音

          花束みたいな恋に憧れて

          倫理観の命綱

          今日会社の上司との面談の中で、改めて「なぜこの会社に入ったのか?」という話になった。今の会社と出会ったきっかけから説明して、会社の理念、進む方向に共感したのが一番大きいのかなと話したわけなんだけど、話しているうちにふと思い出したことがあった。 就職活動中の合同説明会をまわっている中で、一度ディベロッパーの仕事内容を聞いたことがあった。「多くの人々が毎日の生活の中で、少しでも多く幸せな時間や、いい気持ちを感じられるような仕事がしたい」というのをざっくりと軸にしていたので、「ま

          倫理観の命綱

          わたしと「わたし」と、生きていくこと

          現在26歳、社会人4年目がもうすぐ終わろうとしている頃。大学時代の仲良い友人たちは、気づけばほとんどが数年付き合ったパートナーと婚約をしていたり、同棲を始めていたり、結婚式を挙げたりしている。 sns上では定期的に結婚のご報告や出産のご報告が流れるようになったし、その一つ一つにいちいち驚くこともなくなってきた。 「〇〇(わたしの名前)が皆に追いつく会」という名前のLINEグループの皆にあたる3人は、気付いたら全員婚約、結婚をしており、いよいよ追いつくことは絶対に無理だと思

          わたしと「わたし」と、生きていくこと

          「わざわざ」帰ってこれる場所

          一人暮らしを初めて、実家が「わざわざ」帰る場所になった。 都内から神奈川の実家まで大した距離ではないけれど、「ついでに寄る」というわけにはいかず、必要な荷物があるとか、郵便物が届いている、家族の誰かの誕生日、など何かしらの目的のために「わざわざ」家に帰る。 実家で暮らしている時は連休にずっと家にいることは罪悪感を感じたけれど、今は連休に「実家に帰る」という行為が立派な予定で、むしろ良いことをしているような気さえする。物理的距離がもたらす心理的効果はとても大きい。 実家に

          「わざわざ」帰ってこれる場所