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“代わりなんていくらでも”が成り立たない幸せ

2年ほど前に書きかけて下書きに保存されていた文章、
今読み返してもなるほどなあと思うところがあるので、投稿してみる。



2ヶ月前に会社を辞めた。

思ったよりもあっさりとわたしの存在は前の会社からなくなり、思ったよりもすんなりと、新しい会社がわたしの居場所となった。

わたしがいなくなった後の会社がどうなったかは分からないけれど、きっとあっさりとそのまま日々が続いているのだろう。

人がひとりいなくなるって、案外そんなもんなんだろうな、と思う。

「代わりなんていくらでも」で社会は成り立っているのだと思うし、それによって救われることも正直多い。

社会の中のわたしの存在なんてちっぽけで、だから少し疲れて休んだり、辛くて逃げ出したとところで、世界はそのまま周り続ける。それは、気負い過ぎなくていいんだよ、という優しい事実でもある。

*

先日、メンバーの1人が脱退を決めたバンドの、現体制でのラストライブを観に行った。

とても好きなバンドで、ライブにも何回も足を運んでいたから、脱退の話を聞いたときはとてもショックを受けた。

もうこのバンドでこの人が奏でる音を聴けないのか…と考えるととても悲しくて、会場全体にもしんみりした空気が漂っていた。

そして迎えたライブ中盤のMC。

脱退するギタリストが話し始めて、皆が息を呑みながらその言葉に耳を傾けていたとき、

「…やめるのやめよっかな」

想定外のコメントに、一瞬の沈黙の後、会場に驚きと喜びの笑いと拍手が響いた。

わたしは、声を出して笑いながら涙が止まらなかった。

今の居場所を去る決断を突きつけられた時、残された人たちには、寂しさや虚しさや怒りや、引き止めることのできない自分の不甲斐なさ、相手の選択を応援したい気持ちなど、複雑に渦巻くいろんな感情を抱えることになる。

そんな戸惑う気持ちを必死で抑えながら、なんとか事実を受け入れ、諦め、その人のいないこれからの真っ白な日々を、不安ながらも見つめるのだろう。

だからこそ、「やめるのをやめる」という決断は、それぞれが様々な感情と向き合った過程を一気に押し流すことであり、「ふざけんなよ!」と感じるのが当たり前なんじゃないかと思う。

同時に、それだけの葛藤をメンバーにもファンにも与えてしまっている手前、そんなに簡単に決断を覆すことも苦しいだろうなと思う。

だけど、そういう過程を全部ひっくるめても、彼にとってはやっぱりこのバンドが手放し難い大切な居場所だったのだろうし、メンバーにとっても、やっぱり彼にはここにいなければいけない存在なのだということがその日はっきりとわかった。

「代わりなんていくらでも」が成り立たない居場所って、こういうことなんだな、と思った。

「代わりなんていくらでも」を理解して、割り切っていた方が生きやすいことも、前に進みやすいこと多い世の中だけど、「代わりなんていない」と思ってもらえるような居場所があることが、どれだけ幸せなことなのかを教えてもらった。

まさに「掛け替えの無い」という言葉の通り。

自分の居場所の全てで「掛け替えられないように」必死になるのは到底無理だと思うけれど、ここでだけは、という居場所がひとつでもあるのならば、そこを大切に丁寧に育んでいくことは、人生の幸せに間違いなくつながるんだろう。


今のわたしはどうだろう。
2年前に転職した会社では、居場所はあるけど「私ではなくても」「この会社でなくても」は感じていて、仕事においての代わりなんていくらでも、という気持ちは相変わらずにある。

だけど、3ヶ月前から住み始めた新しい家。「この部屋でなくても」はあるけど、「この人でなかったら」こんなに嬉しい日々は過ごせないだろうな、という気持ちが強くある。

ここでなければ、私はこんなにも私らしく笑えていないし、日々を愛おしいと感じることもできなかった。

かけがえのないこのきらきらした日々が、どうかこの先も続いていきますように。

(やめるのやめたバンドは今でも大好きで、昨日もライブのチケットを購入しました)





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