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花束みたいな恋に憧れて

次は「美術館でたまたま同じ作品の前で足を止めていた人」と恋に落ちたい、と思っていた。

あるいは、「好きなアーティストのライブで隣でいい顔をして揺れていた人」とか、「映画館でエンドロールが終わって席を立とうとしたら、隣で静かに涙を流していた人」とか。

自分の好きな作品や空間をたまたま同じように好きでいる人に、惹かれないわけがない。すきなものが同じ人は、無条件で信用できる。この曲がすきな人に悪い人なんていない。この映画がすきな人は、全ての価値観が合うはず…

わたしとっては音楽や映画、風景、ストーリー、それが文化的なものであればあるほど、それを美しいと感じる気持ちへの絶対的な信頼のようなものがあると思い込んでいた。でも、そんなことって意外とないのかも、と最近思い始めてきた。

「花束みたいな恋をして」という映画を観た。終電を逃して偶然出会った相手が、たまたま自分と同じ作家が好きで、同じお笑いライブに行こうとしていて、クロノシスタスを「知らない」と言う。まるで自分の分身みたいに「すき」の感性が似ている相手が目の前に現れたら、それはもう「この人だったんだ」って思わざるを得ないよね。そうそう、まさにこういう出会い!とうきうきしながら観ていた、のだけど。

はじめから「合っている」ところに惹かれ合った2人。全くの他人に、共通点を見付け出してそれをどんどん引きずり出していくあの作業。あれも!これも!それも?となっている瞬間が、最高潮なんじゃないだろうか。

一通りお互い出し終えたら、あとはだんだん「合わないところ」が見えてくるようになる。それはタイミングの違いかもしれないし、単なる飽きの訪れかもしれないけど。

「これを好きなあなた」に惹かれた気持ちは、「もうこれを好きでなくなったあなた」に対して、行き場を無くすのだろうか。

「好きなものが一緒だから分かり合えた私たち」は、好きなものが違くなったらもう分かり合えないのだろうか。

すきなものなんて日々変わっていくものだし、昔すきだった歌がもう心に響かないなんて、自分だってたくさんあるはずなのに。「一緒にすきだった」ものを相手がすきでなくなってしまった時、それをまだすきなわたしのことは?あなたは変わらずにすきでいてくれるんだろうか。

「好きな作品名」という共通点は、とても記号的で表層的で、それだけで誰かとの関係を保っていくにはあまりにも頼りない。

「これとこれとこれが好きなあなたが好き」と一つ一つその記号を名指しできることよりも、「なんでかわからないけどあなたが好き」という理由よりも感情が先行する恋の方が、もしかしたらずっと信用できるのかもしれない。

「すきな作品」や「すきな曲」という、同じ花を集めた花束を見せ合うよりも、お互いばらばらな花を持ち合わせて、見たことのないような、一つの大きな花束をつくっていくような恋ができたら、もっとずっと素敵かもしれない。

わたしが今すきな人は多分わたしのすきな曲の半分も知らないだろうけど、「この曲の良さがわかる人だから」という魅力的な記号がなくても、わたしの知らないその花の色を教えて欲しいし、どんな花に心惹かれるのかも知りたい。ふたりだけの花束を、ゆっくりつくりあげていきたいな。

ありがとうございます。いただいたサポートで、自分の「すき」をひとつ増やそうと思います。