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それなりの人生を愛したい

大人になると、気づけば変わらずにずるずると同じ環境に居続けることもできるし、変わる気がなくても変わらざるを得なくなったり、自ら行動することで変えることも、なんかもう何でもあり得るんだな、と今更になって思う。

例えば、パートナーが海外の大学院に進むことになり、日本での仕事も生活も捨てて配偶者ビザを取得してついて行った友人がいる。

「やむを得ず」の判断で今までの生活をまるっきり捨てていくことは選択肢がないように見えるけど、それだけのものよりもこの人と一緒にいたい、と思えること、そしてそれを選択することが、なんか人生なんだなと思うようになった。

どこで生きるか、誰と生きるか、何をして生きるかなんて、正解も不正解もなくて。

生きる目的も意味もなんだっていい、あってもなくても、達成できてもしなくてもいい。

ただ、自分にとってこれだけは大切にしたいとか、これは捨てたくないとか、そういうものを見つけていくのが、人生なんだろうな。

個人的には対したリスクを取らず、それなりのバランスを取りながら生きてきた人生だなと思う。

それなりに勉強して、遊びもサークルもバイトも楽しんだ学生時代を過ごして、それなりに生きていけるくらいの仕事をしながらそれなりに都内で一人暮らしをして、家族との物理的距離も仲の良さもそれなり、定期的に会える友人もそれなりにいて、特別な悲劇もドラマチックな経験も持ち合わせていないけど、それなりに振り返りたい思い出もある。

それなりそれなりって、そうやってまとめるとまあ平凡な人生を送っていること、と思うけど、遡るとそれなりの節目があって、それなりに悩んで考えて、それなりの思いを持って生きてきた。

経歴なんて、その人の歴史なんて、得たタイトルや所属した組織名や完成させた作品名がなくても、たくさんあるはずなんだよ、どんな人にだって。

特出した何かがなくても、不安に耐えながらひとり涙を流した夜とか、美しいものに心が震えた瞬間とか、とんでもない寂しさを感じた雨の日とか、誰かの愛に触れた温もりとか、そういう、周りから見えなくても確かにそこにあった感情の数々が、その人の人生をつくってきた歴史なんだと思う。

目立つ肩書きやわかりやすい名前では自分の人生を表現できないし、そういうものでまとめられたくない。

いつかこの世を去る時に、「何をしてきたか」ではなく、「何を感じてきたか」を思い出せるような、そんな日々を送りたいなと思う。

そしてできれば周りの人にも、何かしらの感情を残したい、と思う。

わたしと関わったことで、その人の心に何か感情が残って欲しい。できれば明るくて、思わず目尻が下がるような感情であって欲しいと思う。

歴史に名を残さなくても、教科書に写真が載らなくてもいいから、関わった誰かの心の中に、小さくも消えない感情とともに、残り続けられたら嬉しいな。

だからわたしは、ちゃんと言葉や行動で、感情を伝えていきたいんだ。嬉しい時に笑顔になり、悲しい時に涙を流し、自分の心が感じているものに、ちゃんと反応してあげたい。押さえ込んでなかったことにはしたくない。

人生の節目は特に、進まなくてはいけない現実と時の流れの中で、湧き上がっている感情ひとつひとつに目を向ける余裕がなくて、とにかくついていかなければと、いろんなものを見過ごしがちになる。

浸りすぎると進めなくなるから、するするっと抜けようとしてしまう。

だけどちゃんとこの心は感じていて、きっと覚えているから。

後になってふとしたきっかけで思い出して、溢れ出したりする。

それがわたしにとってはスクリーンの中の誰かの物語の中だったり、ステージの上の誰かが奏でる音だったり、誰かの別の思いに触れた時に、見つけられる感情がある。

それをちゃんと知っているから。

今心の底に溜まっている感情も、いつかきちんと向き合える日が来るから。

だから今は流れに身を任せて進んでみようと思う。

なんとかなって、それなりのところに落ち着くのがわたしの人生だから。数年後にはまた、新しい「それなり」が一つ増えてるだけだよ。

それなりの人生を愛したい。それなりに至るまでに出会ってきたたくさんの感情を全部愛したい。

ああ、それなりでも、こんなにもちゃんと人生を積み重ねているんだな。

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