ゆるり、ふわりを纏って
人を形容する時に使われる「ゆるふわ」には悪意が込められているのではないか?とふと思う。
例えば、彼の写真を誰かに見せたときに言われる「あ〜ゆるふわ系なんだ」
「バリキャリOL」に対して使われる「ゆるふわOL」
世間一般的に、「ゆるい」も「ふわふわしてる」にもどこか蔑みの意が含まれているように感じてしまう。
「時間にゆるい人」「財布の紐がゆるい」「いつまでもふわふわして…」
というのも、わたし自身、割と他人から「ゆるふわ」と形容されることが多い。
雰囲気が柔らかいとか優しいとか、多分いい意味で言ってくれているんだろうと思う。けど、どうしても「しっかりしていない」「難しいことが苦手」「頭の中がお花畑」みたいな、いわゆる「知性が足りない」「バカ」というニュアンスをどこかに感じてしまう。「ゆるふわだよね〜」といわれる時、その響きにはどことなく「なめられている」感じがするのだ。
雰囲気がふわっとしていることと、その人が「バカ」かどうかは、必ずしも結びつくものではないのにな。
そんな「ゆるふわ」蔑視?に対する抗いとして、わたしは「ゆるい」よりも「ゆるり」、「ふわふわ」よりも「ふわり」という感じを持つようにしている。
「ゆるり」がもつイメージは、ごちゃごちゃっとしたしがらみをゆるりと通り抜けていく水。社会のいざこざをゆるりとかわしていく軽やかな姿。
難しく縮こまってしまった気持ちを「ふわり」と柔らかくほぐしてくれる温かい湯気。冷たい身体をふわりと包んでくれるブランケット。
どちらも、角やトゲがなく、なめらかで軽やかで淡い、構えなくてもすっと寄り添ってくれるやさしさがあるように感じる。
難しくて複雑で苦しくて理不尽で悲しいことでまみれている世界の中で、ゆるり、ふわりと抜け出して、自分の周りのやさしい空気を保っていたい。心の中ではドロドロした感情もやるせなさも虚しさも、たくさん抱えているのだから。意識的に、ゆるり、ふわりを纏って暮らしたい。
「大人」しく日々を暮らしていながらも、ゆるり、ふわりで他人を包み込める人はとても偉大だ。その軽やかさに、その余白に、人は思ったよりも救われているんだよねと、いつも隣で一緒にゆるふわな空気を保ってくれている、本当はわたしよりもずっと頭が良くて努力家な恋人のことを思い出す。
わたしはわたしの大好きな人たちとの間を、ゆるやかで、ふわりとした空気で埋め尽くしたい。そして、世界は思いの外やわらかいんだねって、騙されたようにハッピーに生きていたいんだよな。
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