本雑綱目 59 古田武彦 「風土記」にいた卑弥呼 古代は輝いていた 1
今回の本は古田武彦著『「風土記」にいた卑弥呼 古代は輝いていた 1』です。
朝日文庫、ISBN-13 : 978-4022604972。同著者の『古代は輝いていた』シリーズ全3巻の1。
NDC分類では210、歴史>日本史に分類しています。
↓最新刊って書いてあるけれど、1988年の最新刊。
これは乱数メーカーを用いて手元にある約5000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。
★図書分類順索引
1.読前印象
卑弥呼は呼称はともかくとして後漢書や晉書といった漢籍に現れる存在で、日本の古典にその名では現れない。それで卑弥呼というか邪馬台国の所在は大きく分けて北九州説と畿内説があって、畿内説は奈良辺りの遺跡群が中心だった記憶。一方で風土記は奈良時代に編纂された各地の地理書だが、畿内の風土記は確か播磨国風土記だけで兵庫あたりだから多分違って、北九州説なら筑前風土記か筑後風土記でいずれ逸文だったと思うけれど、いかんせん読んだことはない。風土記って常陸国風土記や出雲国風土記が有名だけど元々は各地に60ほど作られたけれどその多くが散逸して、その他の文献に引用された形で残っている。
輝いていたっていうのはピカってた(物理)ってことではないよな、きっと。宗教的に輝いていたとか女王的に輝いていたとか、翡翠が輝いていたとか(混乱。
いや、輝いていたのは卑弥呼じゃなくて古代だから平気。
2.目次と前書きチェック
はじめにを読む。歴史は戦前は神話(古事記・日本書紀、合わせて「記紀」)から始まり、戦後は神話偽書説により神話を歴史から排除した。にもかかわらず戦前戦後を通して古代という時代は天皇家一元史観で語られてきた。出雲・九州・銅鐸・関東王朝等の多元史観から見ることによって、これまでの一元史観での矛盾の説明ができる。この夏(1987年?)出雲から大量の剣が出土したことからも著者の主張は裏付けられる。
基本的に史書は強者が作るものというのは同意。そう考えると、強者以外の書籍がわりと残っている日本というのは珍しいのかもしれない。エロ本とか治安維持目的とは別に日本では焚書事件は少ない。大々的なのは大日本帝國時代の禁書だけどせいぜい二千冊くらいで、GHQも何万冊か禁書したと聞いたがわりと近代以降だ。江戸時代もちょくちょく禁止されていても取締はゆるいイメージがある。伊達政宗が自分の書を焼けといったのに愛されすぎてたくさん黒歴史残るみたいな例とかも多い。
目次は『日本古代史の夜明け』、『日本神話の多元性』、『隣国の証言』、『金石文の証言』、『倭人伝との対面』、『倭国の鳥瞰図』です。
ちょっと多いけど『日本神話の多元性』、『隣国の証言』、倭人伝との対面の中の『卑弥呼論』を読むことにします。卑弥呼はタイトルになってるのに紙幅が少なくない?
3.中身
『日本神話の多元性』について。
記紀の記載から、筑紫を中心に出雲・越方面、瀬戸内の安岐津(豊国)・二名(伊予)・児(吉備)、淡路島を東限とした文化圏があり、これは弥生時代の銅矛の分布、銅矛の渡来状況とも一致すると述べる。神武天皇の出発地が日向だったために近畿中心神話に改作した。
記紀にある天は対馬近辺の諸島であり、日向は日向峠の糸島側(北九州)である。海洋の国であった天が稲の生える陸を治めたのが天孫降臨である。本居宣長が読み名を改変しまくったせいで軽重がめちゃくちゃになっているが、天照大御神の原型は対馬の阿麻氐留神であり、元来一柱(高位)であった阿麻氐留が、神の王(?)である出雲の大国主命に対して下剋上したのが国譲りである。そして記紀神話はその正当性を示すために作られた。須佐之男が罪人として出雲に送られたのも出雲の格を下げるためであるとする。
様々な出土物や口伝を前提に論を広げているけれど、わりと思い込んだら一直線な感じを受ける。阿麻氐留が天照と音を共通すること自体とそれが一つの根拠となりうることは同意するし面白いと思うけれど、地元の人の口伝を重要視しすぎているような。
『隣国の証言』について。
三国史記及び三国遺事(成立は12~14世紀)を引く。三国史記の新羅の脱解王(1世紀)の出生地である多婆那国は「筑紫の日向の橘の小戸」の橘である立鼻(北九州地名立花)が転じたものだ。当時筑紫人と新羅の地の間で交流があったことは金海式甕棺が金海、唐津、佐賀平野等に分布していることからも証明される。
三国遺事における延烏郎と細烏女は天(天照の支配する対馬・壱岐)から来たのであるとすると、「天に命じられた」「日(対馬)月(壱岐)の精」という言葉も理解できるとする。そして新羅・天・倭国が日月を祀る共通した信仰を持っていた。
うーん。日と月に対する信仰は、いわゆる文明の始まりの時期では多くの国や文化で持たれていたのではないか、という素朴な疑問。中国はこの頃すでに春秋戦国時代から漢に移るころで原始的な日月信仰というものは失われていた気はするけれど、天と日月というのはアジア文化圏どころか世界共通レベルで信仰の対象となっている存在だから、これを大きな根拠とすることに違和感がある。
三国史記の成立はこの解脱王の時代からも千年以上隔たっている。そんな遠くで時期も不明な海流を想像しながら場所を想定するのはどうも論拠が薄い気がしなくはない。時期が卑近な三国志魏志倭人伝(3世紀)の會稽東治之東説の方でとりあえず俄な僕は満足してみる。この記載も場所に幅はあるけれど畿内ではない。あれ。でもこれがあるから天孫降臨が高千穂になってるんだっけ。
『卑弥呼論』について。
記紀中に卑弥呼の記載がない点については、戦前は倭王は天皇のみであり、戦後は記紀は造作だという観念から真面目に検討がされていなかったからだ。書紀の神功皇后や天照大神が卑弥呼であるというのは三国史記等の文献及び時期からも該当しない。卑弥呼は筑紫国風土記にある日甕である。そう考えても矛盾はない、と述べる。
全体的に、現在神話と考えられているものは、戦前は国学者のクリエイトした天皇を神に位置づけるための万世一系論に基づく歴史であり、記紀を後世に作られた偽物であって全てをおとぎ話の枠組みに嵌めて全てを無かったことにするように完全に目を逸らしてしまった為、研究が進まなかった、というのはそうなんだろうなと思うし近代日本的だなぁと思う。
著者のアプローチとしてはその土地々々の遺跡や出土品の傾向、各地の伝承、特に地名等の意味づけから弥生時代頃に対馬壱岐にあった海人勢力が筑紫に上陸し、当時中枢であった出雲を倒した時、その権威付けに記紀を作ったというものだ。そして記紀に富士が出ていないことからも、富士の見えない範囲(近畿より西)が起こりであるという。
基本的にはそうかもねと思うしあり得ると思うんだけど、ちょっと気になることがあって。著者は富士の主神である木花咲耶姫は記紀神話に出てくる瓊瓊杵尊といちゃついた姫とは別であると断言する。それは確かにそうなのだろうけど、その話が富士で出てくるのは近世以降なのだ。つまり記紀神話と同時代の話ではそもそもない。伝承というものは後世に突然POPUPすることはままあり、この富士の木花咲耶姫も記紀神話と結びつけられて作られたのだろうから、というか著者の主張をベースにすると出雲を支配下におくのと同じルーチンで富士を支配下に置こうとして中途半端に混ざったという方が僕としては納得しうる。だから全く別の人物とする点に違和感がある。別物と言えば木之花咲耶姫の話が出る前の平安時代の都良香の富士山記では山頂に天女が舞い踊る姿が見られたという伝承が出ていたはずだから、多分そこが入れ替わったんだろうかなと思う。そもそも富士として神格を得たときには山(そのもの)、或いは男神と認識していた気がするけど。
それで何が言いたいかと言うと、口伝というものは往々にして誤謬が生じるものだ。伝言ゲームを考えるとわかるが、元々の形が二千年もそのまま残っているはずがない。著者の論拠は所々そんな口伝から出ているように見えて、口伝というのは真実を伝えうるということは確かだけれど、総合的にどの程度信用ができる資料で構成された論なのか、古代はあまり詳しくないのでよくわからない。
小説に使えるかというと、例えばこれをそのまま対馬・壱岐勢力が出雲を倒した話を書くなら使える気はするけれど、それを構成するにはそもそも読み込まないといけない文献が多そうで大変そうだなぁと思う。
4.結び
ちょくちょく「わたしはそれを疑うことができない」という表現が出てくるけれど、これは反語の一種なのかしら。私が主語だから、これって感想なのかな。当時流行った言い回しなのかしらん。わりと独特の言い回しが多い先生です。
次回は山本笑月著『明治世相百話』、です。
ではまた明日! 多分!
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