トラウマ炒飯~呼吸と動作~親の刷り込みを超える
昨日…何年間も作れなかった「炒飯」を、やっと作れた。
炒飯自体は私の大好物なので、実家にいたとき、結婚してたときは、割と頻繁に作ってた。ちくわとか肉とか、残り物具材の処理が出来てスッキリするし。
同居の人がいて、「作らなければいけない」状況なら作れるけど、自分一人用にはなんでか作ってなくて…。そもそも、作らなくても、めっちゃめちゃ美味しい冷凍炒飯が売ってるし。
この家に来てから作る気が無くなったし、作れなくなってた。
自分的には「一人だし、台所慣れないし、疲れてたり…というのが原因かなあ」と思ってた。
私は、「場所」になじむのに時間がかかる方なのか、人の家の台所とか、苦手。特に「台所」は、配置や使い勝手が違ったり、引っ越したりすると、それに慣れるのに非常に手こずる。
でも、先日のクレープのハマりっぷりのように、調理全般が絶対的に嫌いなわけでは無い。
実験好きなのも手伝って、中に、ちょこちょこ、作りたいと思うメニューと、作りたい欲求がある。(単に、美味しい物食べたいだけとも言う😅)
昨日はその前夜から「炒飯食べたい欲求」が二夜連続でピークに達したのと、先日の動作トラウマで書いた内容もリンクして、
「炒飯つくれなかった原因はこれか!」って気付いた。
うちの実家の炒飯は、玉葱、ピーマン、人参、肉、卵、がレギュラー素材。母親は「応用を利かせない」タイプの主婦なので、チャーハンの具材を変えるということがほとんど無く、私もそれを継承してた。
けど、結婚中にそれらの具材が家にない事があって、応用として玉葱の代わりにニンニク、ピーマンも無いので「無し」でやってみたら、思いの外美味しくて。。
よく考えたら、実家のは具材の「人参、玉葱、ピーマン」は、固め野菜で、切り方はみじん切りだ。(ピーマンは柔いけど)
今まで「なんでか、やりたくなくて」作れなかったのは、もしかしたら、「野菜のみじん切りの多さ」が原因なのかなあ、と。
中でも人参は、「固くて」「火の通りが悪くて」「なるべく細かく切らないといけない」素材。
切るときに、よく母親からだめ出しをされてた素材っていうのと、
「もっとうすく」「もっと細かく」というプレッシャーから、昔からかなり神経を使って切っていた。最初に薄く切らないと、その後なかなか細かくならないから、薄く薄く、なるべく厚さを揃えて。。。と。
その時に、やはり、「薄くすること」に「細心の注意」と「神経」を使っているので、呼吸がほとんど止まっているのですね。
吐いたままになっているというか。
なんて言うんだろう、
「吐くと吸う」の真ん中で止まっている。
調理中の呼吸をよく観察すると、ニンニクを切るときにも止まってた。
合間合間で、一応、生命に問題ないだけの呼吸はしてるにしても、何分間も息止めて動いてるって、体には相当負担。
アスリートじゃ無いんだから。
他にも「切った具材をこぼさないようにフライパンに入れる」とか、思わぬところで息が止まってた。
それで気づいた。
「調理終わるとぐったりするのって、これかあ!」って。
調理終わった時って、既に疲れ切っていて、
「美味しいとか美味しくない」とかもう
「どうでもいいや」位になってるときも多かったのですよね。動けない事が結構あった。
一番大事な呼吸があやういことになってるんだから、そりゃそうだって。
思えば、母親も、全ての調理が終わって皆で「いただきます」をするときに、すぐに動けなくて食べれないことが良くあった。
もしかしたら母親も、呼吸止めて調理やってたのかもしれないな~、とかぼんやり思ったりもして…。
私はいま、料理人でも無いし、野菜嫌いの子供の母親とかでも無い。自分で作った炒飯は、多少みじんが荒くなっても、いい。
そう思って、
「呼吸を止めないように気をつけて」
「多少のことには目をつぶって」
具材を切るのから、炒めるまでをやってみた。
「スーーー」「ハー~~~」「スーーーー」「ハー~~~」。。。
これに沿って、刻むとか混ぜるの動きもやってみる。
無理しない、呼吸を止めない、具材の少ない炒飯。
ニンニクと人参と玉子だけの炒飯。
楽。。。
ほんとにさ、すっごい、美味しかったんだよね。。。
付け合わせのスープすらなかったけど。
ちゃんと、美味しいって感じられた。
久しぶりに、疲れよりも「早く食べたい!」ってなった。
やっと作れたなあ。
一つ、自分の中の壁、越えたのかなあ。
※作る過程で美味しそうすぎて、早く食べたくて写真撮り忘れたのです😅。人参、ニンニク、卵の炒飯撮りたかったなあ📷。
なので、今回の画像はお借りしたものです。家庭で作った炒飯が良かったのです❤️
(ながながお付き合いいただいた方、ありがとうございます。思ったこと、乗り越えたこととか、できたこと、すぐ忘れちゃうタイプだから書いておきます。。。)