納骨も済み、一旦自宅に帰ることとした。 私には二人の騎士(ナイト)が付き添った。 義弟と、彼の夜勤専属ヘルパーだ。 離陸し、飛行機から澄んだ海を眺める。 自然と涙がこぼれた。 夕飯を食べ帰宅し、家の明かりを点け、ベランダに出る。 一服すると見せかけ、車から外に出て見守っている二人の騎士に柵から身をのりだし、手を振ってみせる。 1階に住む私の家のベランダからは飛び降りもできない。 時は残酷なほど早く過ぎていく。 私は、テレビを観ることができなくなった。 時を知らせ、時には
家に連れて帰ると言ったもののどうすれば…さすが沖縄の葬儀屋さん。 離島への輸送もお手のものだった。 しかし、3歳から島を離れて本島で暮らしていたロン。 友人達にお別れをしたいはずだろう… 葬儀屋さんと相談し、那覇市内で『お別れ会』と称するものを催すこととした。 沖縄では、新聞に告別式の日時を掲載することが常である。 皆、新聞を広げる際には、告別式の日程がずらりと書かれたページから見る。 ここまで触れていなかったが、彼は画家として食っていけるほどの収入はなかった。 むしろ
何年も経って気付かされることがある。 沖縄では魂を『マブイ』と呼び、ひどく驚いたりショックなことがあると体から離れてしまう。 マブイは生命の源であり、再び戻さなければ元気のない状態が続くとされる。 そのため、例えば交通事故に遭った場合には、現地までいき、マブイグミ、魂を身体に戻す儀式をする。 こどもが夜、外を出歩くようなときにはマブイを落とすのを防ぐため『サン』と呼ばれるお守りをもつ。 ロンのお母さんが帰省するとおかずをたくさん帰りに持たせてくれるが、それにも『サン』が添
彼の最期は急だった。 しかし、彼はきっとわかっていた。 病院に運ばれる数日前に『死』についてブログを書いていた。 死ぬのは怖くない。遺された皆がどう思うかを懸念していた。 その日は、友人3人を引き連れて映画を観に行った。 車いす席から、横の席をずらりと陣取った。 ゾンビ映画で、ハロウィンのゾンビコスプレが気に入った彼は、「これ絶対続編あるから、その時はコスプレして来ようよ!」と言っていた。 映画の後半から痰が多くなった。 友人との別れの挨拶もそこそこに、帰路についた。
療養という名のもと、ヨガとピラティスを始めた。 ヨガでハンモックに揺られ、サナギのような格好になり瞑想している時、先生が声をかける。 「心のモヤモヤ忘れて…ただ生きている。赤ちゃんの頃に戻りましょう。」 ただ生きるということがこんなにも難しいのか… 死ぬこともできず、生きることにも怯え、疲れ…生と死の間で宙ぶらりんでいる。 先日、母が来て一緒にテレビを観ていた。 殺人の罪にとわれていた容疑者に無期懲役が求刑されたとあった。 以前、私自身が裁判員裁判の裁判員を務めさせてもら
私の手元にロンの描いた絵画が1点残っている。 人気のイルカの絵。 彼の最期の作品である。 イルカや風景画を描いた。 特にイルカが人気だが、ロンは実はそこまでイルカが好きではない。『客寄せパンダ』と呼んでいた。 インタビューでは、 「泳げない自分がイルカと泳いでいるところを想像して描きました。」 と応える。 …歯が浮く。 難病、筋ジストロフィー、車いす… これらも彼にとっては客寄せの1つだった。 自分ではそれをなんとも思ってないんだから。 いつかのハロウィン。 仕事終わり
2月採用通知がきた。 …やった。 就職できる。 周りの皆はぞくぞくと内定をとっており、内心焦っていた。 国家試験の勉強のため、私が勉強するために籠っていた部屋をこじ開け、姉がしきりに相談しに来ていた結婚披露宴が催された。 日取りはバレンタインデー。 バレンタインにちなみ、座席はチョコの名前にし、ご来席いただいた皆さんにチョコレートブラウニーを母と三姉妹で一晩中かけて焼いた。 家族が一人旅立ち、そしてまた同時にお兄ちゃんができた。 その後、2番目の姉も結婚し、またお
ロンの周りにバリア(障壁)はなかった。 よく二人で出歩いた。 電動車いすの速度は意外と早く、小柄な私は少し早歩きをしなければならず息が上がった。 そうすると、ロンの電動車いすの肘掛けに腰掛け操作してもらう。 夜風が心地よい。 小さいロン毛の髭のおじさんが、よくわからないものに乗って、すいーーっと動く様は一目を惹いた。 特に子どもたちは興味津々である。 じーっと見つめてくる。 思わず 「もしかして…おじさんが見えてる?」と小声で話しかける。 「この小さいおじさんは見える
合同企業説明会にスーツを着て向かったがやはり心は動かなかった。 福祉の道に進みたいという私の気持ちは変わらなかった。 もちろん、一般の企業で福祉の目線からアプローチするのも良いと今になると思う。 就職し、学生実習の指導をはじめると「この実習の経験を元に、障がいをもった人が楽しめる沖縄旅行プランを作りたいです!」と言って終えた学生がいて嬉しかった。 就職先は一本に絞った。 母のいう、しっかりお休みの取れる福利厚生の充実した福祉職。 今思うと無謀である。 しかしながら、あり
秋に毎年展示会を催していた。 最初は3人。 ロンとTちゃんとO氏。 回数を重ね、どんどん輪が広がり、最終的に何人になったんだっけ… 沖縄県内外からアーティストを集めた。 ロンはそのアート集団を率いるボスだった。 絵画、写真、折り紙アート、陶芸、書道、音楽… ちなみに私は一番嫌いな科目が美術館や図画工作だった。 絵なんてとても見れたもんじゃない。 アーティストというものの存在自体に尊敬する。 私は自然と裏方にまわった。 ちなみに、アートチームの名前を検索し出てくる写真は
我が家はありがたいことに習い事を2つさせてもらえた。 1つはお母さんが決めたお習字。 八段を習得するまで習うこと。 もう1つの習い事は自分で決めてよいというシステムだった。 長女は英会話教室。次女はバドミントン。 私はピアノを選んだ。 仲の良いお友達が教室で弾いていて憧れた。 しかし始めてみると、そう簡単にはうまくいかない。 練習嫌いな私は、先生に怒られるのが嫌で、ピアノの教室まで車で送ってもらうと、車から意地でも降りなかった。 ドアのロックをかけつづけ、ピアノの先生のお
前述の通り、ロンは頑固だ。 しかもうちなーんちゅの長男ときた。 彼が言うこと為すこと誰も止めれやしない。 難病の身体、あちこち遊びまくっているがやはり順風満帆とはいかない。 時には熱を出すこともある。 普通風邪をひいたら、病院に行って風邪薬なりを処方してもらうなどするだろう。 病院育ちのロンは病院には行かない。 熱が出始めると、ピルクル(乳酸菌飲料)をゴクゴクと飲み、 毛布を着込みまくる。 普段はめちゃくちゃ暑がりの彼。 サウナ状態である。 たちまち熱は40度を越え
進路 大学で実習があった。 当時は4週間の実習だったが、私はどうしても行きたいところをしぼれず、2ヶ所に4週間、計2ヶ月通った。 一番行きたい箇所は遠かったが、早起きして通った。 精神科への実習は躊躇って辞めた。 引っ張られると聞くから。 怖かった。 3年生になると、就活が始まる。 そこで母とすれ違いが起きた。 これまでよく体調をくずしていた私。 親元を離れるのが心配。 お休みがしっかりいただけるところにしなさい。 結果、母は「あんたは障害者なんだから。」 「障害
大喧嘩。 初めての喧嘩をした。 大喧嘩も大喧嘩。 互いに頑固なため、折れるわけもなく、丸々1ヶ月口も聞かなかった。 周りが仲裁しても意味はない。 その間に彼は誕生日を迎えたが、寿司ケーキを作り、 「渡しといて。」とヘルパーさんに頼む。 きっかけは彼の意志を伝える携帯電話。 昨年誕生日に私が贈ったものだ。 ある日帰ると、彼の携帯がiPhoneになっている。 私の贈り物は解約され、iPhoneに乗り換えられていた。 「私からのプレゼントだよ?何か一言言ってから換えない?
障害者 大学に進学し、18歳を迎える頃、母に障害者手帳を作ろうと言われる。 見た目も普通。 一般的には手帳申請はできない。 「二分脊椎症によるぼうこう機能障害」と診断書には記載がされた。 私は「障害者」なんだ…。 抵抗があった。 18の誕生日を迎えて半年。 証明写真を撮り、申請をした。 私は健常者から障害者になった。 障害者の害の字について、あまり良い意見は聞かれないが、私はあえて『害』を使う。 ちなみに『碍』という字から、常用漢字である『害』に変わったという経緯
放浪者。 交際をはじめて皆が言っている意味がわかった。 「こいつが車椅子でよかった。」 車椅子でどこへでもいく。 階段などの物理的なバリアも関係ない。 行きたいとこに行きまくる。 地元の離島に帰るために船にも乗る。 飛行機だってもちろん。 きっと健常者であれば、ヒッチハイクとかバックパッカーとかやっていただろう。 音楽とお酒が好きだった。 私は猛烈な雨女のため、予告せずに突然行き先を告げられる。 「今日はライブ行くから。」 夜になり、地下のライブハウスに行く。 階段