「良さ」を見い出す眼を鍛える
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こんにちは、旅人先生Xです。
今日は「良さを見い出すこと」について書いていきたいと思います。
良かったら、のんびり目を通していってみてください。
目次は、以下の通りです。
授業研究会に参加して思ったこと
学校には、授業研究会というシステムがあるのですが、私はそれをとても良いなと思っています。
授業研究会は、公開してくださる授業を参観して、みんなで、教材や指導の仕方について議論するというものです。
実際に子どもたちと授業をしているところを見させていただき、生の姿を見た上で色々と話をするのは毎度、とても勉強になります。
「自分ならこうするかな?」と考えるのはもちろん、他の人のご意見もざっくばらんに聞くことができると更に勉強になります。
視野が広がる感覚が私は好きです。
経験を重ねていくと、ついつい似たようなスタイルや「これがいいんじゃないかな?」と思うことが出てきがちですが、定期的に色々な視点についての意見を聞くことで、普段の自分の行動を見直すことができます。
私は特に、「一人ひとりに声をかけて実際に支援している様子」を生で見るのがとても勉強になっています。
自分が受け持っている子たちや今まで一緒に過ごしてきた子達のことを思い返しながらみると、「気をつけなければ」と思ったり、「自分は、よく見られていなかったなぁ」と反省の念がよぎったりするからです。
授業研究会は負担になっている部分も当然あるとは思うのですが、指導について見直すとても貴重でありがたい機会だなと個人的には捉えています。
研究会に参加して感じる「良さを見い出す眼」の大切さについて
研究会や勉強会に参加していて、私がすごくタメになるなぁと思うことがあります。
それは「良さを見い出す眼」が鍛えられるということです。
そうしたことについて、知ることができるというのが本当にタメになります。
実践をしてみると予定通り完璧にできるなんてことはなかなかなく、参会者の人や授業を実践した本人にも気になるところや至らなかったところがあるというのは良くあることです。
それらについて議論することも今後に生かすために当然必要なことだと思います。
ただ、それと同様に「どんな良さがあったのか」ということを見い出し、その価値について考えるというのも大切だと私は思います。
教育現場において、「これが完璧で正しい」という授業や実践がもし仮にあるのだとしたら、既にそれが広まり、みんなやっているはずです。
ですが、実際には、そんなものはありません。
だからこそ、どういった実践にもメリット・デメリットがあるわけです。
その双方に眼を向けたり、それらを見い出す眼を培ったりしていくことが必要なのだと思います。
そして、その上で、その時の自分が「これが良いのではないか」と考えるものを選び取っていくという営みが大切になってくるのではないでしょうか。
良さを見い出す眼というのは、教育現場で子どもたちと接する場面だけでなく、実に様々な場面で大切になる力だと感じます。
だからこそ、教員をはじめ、多くの人たちが培っていく価値のあることなのではないかなと私は考えています。
今回は以上になります。
最後までお読みいただきありがとうございます😊
ではまた、次の記事でお会いしましょう。
みなさま、皆様、良い一日をお過ごしください。