5分でアンリ・ベルクソン


3500字程度、およそ1分700字換算で5分。

「読書が好きなんですよねー」
「好きな作家は?」
「えーー、あーー、色々いるんですけど」
「……。」
「えー、ベルクソン?最近は…」
「……ベルクソン?」
「いやもちろん他にもいるけれど敢えてってゆーか……」
「……どんな人?」
「……えーーと」
「……。」
「1回まとめてきます……。

 ……これがよくある。作家の話に限らず。
 実行に移すことはまず無かった。


【アンリ・ベルクソンの紹介】

 1859年10月18日パリ生まれ。亡くなったのは1941年。

 フランスの一級教育資格アグレガシオンに次席で合格し、国際連盟の国際知的協力委員会(ユネスコの源流)で議長を務め、1927年にノーベル文学賞(受賞理由:彼の豊かで活発な発想と、それが表現された鮮やかな技巧に対して)を受賞した(wikipediaより)、名実ともに天才的頭脳。

 神秘主義的とか哲学破壊的とか言われることもあるが、そうではなくて、いずれの著作もラディカル或いはクリティカル、つまり、お高く纏まりかかっているところを的確に突き崩しているので、反感を買ったり勘違いされやすい(多分)。数学も得意で科学への見識も深かったらしい。

 批判のために一から論理を構築して、そのまま批判もそこそこに、責任持ってその論理で結論を出すので置いていかれそうになるが、発想は大胆で、論理は明晰、比喩もわかりやすくて美しく(ここも嫌いな人は嫌い?)、私の個人的な印象としては、バキバキの学術にも一般の常識にも寄り添っている。

 実用主義(プラグマティズム)や「生の哲学」に親和的といわれるが、それもなんか悔しい。ロマン無し!合理的!とか、生命最高!直観最高!とか、ゆってるみたいに思われるのは悔しい(実用主義・生の哲学の人達も別にそんな極端で元も子も無いことゆってない、そもそも哲学を派閥で纏めようというのがナンセンス、入学試験ならまだしも)。

 結果、「そっちはどん詰まりだからこっちの方向に進みなよ!」と指差す感じで、間違った点よりは正しい方向に、みたいな結論が出るから、曖昧な印象を持たれやすいのかも?でもそれってすごいなんというか「科学的」で、論理自体に曖昧な点は(少なくとも私には(当然))見つけられない。批判は的確で、主張は合理的。著述を読む楽しさが感じられる。

【主要著作紹介】

大雑把です、大目に見てください。著作の内容がごっちゃになっているかも……。

『時間と自由』

ひとことで言うと、カント(を不正確に乱用する当時の傾向)への批判。

「対象に認識が従うのではなく、認識に対象が従うのであって、認識は物自体に到達することはできない」というカントに「まあ言いたいことはわかるけどそんなんでいいの?」と思う人や「はい、アキレスは亀に追いつけないでしょ(アキレスと亀)。いやいや実際の話はしてなくて論理的にはそうでしょ?論破できる?これが哲学さ!」という話に「はあ?怒」と思う人にオススメ。

カントのコペルニクス的転回やアキレスの亀は明らかに(少なくともいくつかの点で)常識に反するところがあるが、カントの画期的で明晰な発想に「これこそが哲学なんだ」などと哲学が傾倒してしまいつつあった(らしい)。

カントは「人間の知性には感性と悟性があって、悟性には時間と空間だけがア・プリオリ(先天的)に与えられている、感性の向こう側の物自体には辿り着けない」として論理を構築しているが、ベルクソンは、時間と空間をア・プリオリとしている点を指摘。簡単に言うと「先天的に時間という既に明晰で等質なものが与えられている」というのは仮定として強すぎる、として突き崩していく。

時間が先天的に与えられるのではなく「等質的でない時間=持続」も意識に与えられているはずで、等質的な時間は持続を空間のやり方(等質的に計測できる)で把握しなおしたものに過ぎない。

つまり、カントの理論を悟性の明晰性・哲学の完璧さを求めるために用いるのは不適当で、意識の中の時間には明晰等質でない質的なもの=持続は含まれないとは言えないのだから、明晰な悟性が明晰でない物自体に到達できないというのも非合理、「物自体に到達できないとか極端でしょ」と言える!

このやり方で「世界はまったく偶然である」という主張と「世界はまったく必然である」という主張も崩せるetc...

後に「この持続ってゆうのはアインシュタインの相対性理論みたいなこと?」という誤解を避けるため相対性理論も批判する。相対性理論のいう時間は確かに従来の時空の概念よりも質的に拡張されたかもしれないが、計測可能である点に違いはない。「時間は本来計算に使えない」と言いたかったのではなくけれども(そもそも哲学を批判しているだけで便利な自然科学を否定しているわけではない)、哲学上で論理的に、(計算に使える時間でない)「持続」のような質的なものを我々の知性の中から除外するのが非合理だと言いたかったのだ、と思う。

『物質と記憶』

ひとことで言うと、唯物論と唯名論の双方への批判。

「心?そんなんただの脳の働き、電気信号でしょ」というのも「心は、肉体から解放された独立したものなのです」というのも「なんか違うくない?」という人にオススメ。

唯物論も唯名論も、物体と精神ははっきりわけることができる、ということを前提としていて、その中間を排除することはやはり非合理だろう、としてその中間項を「イマージュ」と呼び、論理を構築していく。

「脳のここが欠損したら記憶なくなったよ、はい、記憶は脳に保存されてまーす」に対して「脳のその部位は壁に打たれた釘のようなもので、釘がなくなれば服は落ちるが、釘に服が保存されているとでも?」と言ったり、「物質界と精神界は対立して相容れない(物心二元論)ものではなく、精神界は物質界の一部として包含されている」と言ったりする。

これはおそらく他の著作についても言えることだが、引用開始「その哲学によって私達は常識の示す結論へと連れ戻されることになるはずなのである。私に言わせれば脳の状態が描き出しているのは心理学的状態のほんの一部分であって位置の動を通じて翻訳することが可能な部分であるに過ぎない。」引用終了。

『笑い』

フランス喜劇を中心として笑いを分析。「笑うのも人間だけだが笑わせるのも人間だけだ。人間は人間が機械化するのを笑う。笑いは社会的懲戒だ。」と聞くとやや強引な印象だが、人間・機械・懲戒の意味合いは一般的な意味合いよりゆるやかで、確かに笑いってそうなってるな、と思える。

『創造的進化』

ひとことで言うと、ダーウィン進化論への批判。

「人間の知性は神が創り給うた」とまでは言わないけど「人間は毛のなくなった猿ですよ」というのも納得できず「じゃあ知性ってなに?」となる人にオススメ。

本能は事物を知り、知性は関係を知る。この著作に出てくる「工作人(ホモ・ファーブル)」という言葉は現代社会の教科書にも掲載されるもので「人間は工作する生き物である」だけ聞くとふーんって感じやけど、読んだら「確かに!」(道具を使える動物はいる、しかし道具を作るための道具をも作れるのは人間のように発達した知性だけだ的な話がもっとちゃんと)ってなった。

疲れてきたので紹介は引用で済ませます!
「『存在しない』と考えられた対象の観念の中にあるもののほうが『存在する』と考えられた観念の中にあるものよりも多いのであって少なくはない、否定は警告で判断の判断で二次的でいかなる観念も否定から生じることはない。……否定も含めてわれわれはつねに空虚から充満へと進む」
「仮に物質を利用するために知性が作られているものだとすれば、知性の構造も物質の構造に即して象られてきたに違いない、少なくともそのように考えるのが最も単純で蓋然的な仮説であろう」

『精神のエネルギー』

タイトルからすると、超常現象否定への批判。
まだ読んでいない(好きな作家なのに?)。

『道徳と宗教の二つの源泉』

タイトルからすると、道徳や宗教の否定に対する批判。
まだ読んでいない(よくあることでしょ)。

【まとめ】

 以上のようにベルクソンは、便宜的で恣意的な分割を絶対的な拠り所にしようとする哲学を批判して新たな哲学を構築しようとしている。発想も論理も比喩もどれも、どこをとったって鮮烈!

 私が偶々ベルクソンにハマったのは、日本の哲学ってあるん?→西田幾多郎・九鬼周造?(マアマアかな、別にもう読まんでいいか)→ところでその師匠ベルクソンって誰(そういえば高校倫理の教科書にちょっとだけおったかも)?→!!!、のようなほぼ最短距離で、体系的に読んだわけでは全くない。けれどもむしろ「ソクラテスとかから全部読んでいくのだる、カントとかニーチェとかハイデガーとか長すぎ、デリダとか最近まで来たら、いや来んくても哲学とか基本事前知識必要すぎて無理、けどちょっと哲学興味あるよ」という人(それは私ですが)に強くオススメ。

 宗教家的な決め打ちでもなく、天才なだけで知的遊戯な衒学でもなく、哲学を楽しみながら哲学に囚われない、好感の持てる天才、私の中でそういう哲学作家、が、ベルクソン、私の好きな作家の、無理やりながら私の推しの。

あなたの好きな作家は?」

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