見出し画像

歩くとは調律すること

ウォーキングを始めてから2ヶ月が経った。同じことをコツコツ続けることが苦手なので、たった2ヶ月でも自分的快挙である。1日1万歩を目標に、少ない時で8000歩、多い時で1万5000歩近く歩いている。

始めたきっかけは仕事が急に暇になったから。昨年後半の目が回るような忙しさが嘘のように、年明け状況が一変した。年末年始休みを経てなお疲れを引きずっていたため、1月こそその状況を喜んでいたが、2月半ばにもなると、段々と不安が募る。

「こんなに暇でいいのか?」「クライアントの役に立っているのか?」「そもそも頼りにされていないのかも」。時間に余裕ができると思考ばかりが忙しくなる。ちょうど娘の通う学校で毎日コロナ感染者が出るようになり、学級閉鎖と感染に怯える日々と重なって、考えはどんどんネガティブな方向へ寄っていった。まるで自家中毒を起こしているみたいだ。
 週の半分は在宅勤務をしていたので、人との会話する機会も減り、このままひとりで鬱々とするのは良くないのでは、と思うようになった。

 そんな時、たまたま開いたinstagramで、フォローしている何人かが、同時に、ランニングしている投稿をアップしていた。その中で目についた「運動とは“運”を動かすということ」というワード。普段なら素通りしていただろうその言葉をきっかけに、ただ縮こまっていてもいいことないのは当たり前かあ、と歩きに出ることにした。年末年始に増えた体重がなかなか減らず、ダイエット目的でもあった。

 雨の日も面倒だなあと思う日も、必ず家を出て歩く。1ヶ月くらいは体重もほぼ変わらず、ダイエット効果を期待していた身としてはガックリしたが、下半身のシルエットが少しスッキリしたかも?と思う程度には引き締まった。試しにキツくて履けなくなっていたパンツを履いたら、ラクに着られた。ウエストや腰、お尻に明らかな余裕がある。調子に乗って、駅の階段を上がってみたら、息切れしなかった。体重計の数字には現れない、でも確かな変化が嬉しくて歩くことに夢中になった。

体型の変化以上に良かったのは、歩くと気持ちがフラットになること。

 仕事でショックなニュースを聞いた時も、憂鬱を振り払って歩きに出た。歩いていると、なぜ自分がその出来事に衝撃を受けたか、次第に分析し始める。原因を細分化すれば、恐れや不安、悲しみの粒が一つ一つは小さなものだと気づく。それらはその大きさのまま受け止めればいいのであって、自分の中で膨らませる必要はなかったな、と強張っていた心と体が少しずつほぐれていく。

歩くとは、自ら景色を変えることだ。
信号や道行く人、道端の花や建物に目が行き、何一つとどまらない。そのせいか思考がパラパラと飛んで、思いもよらなかったいいアイデアややりたいことがポッと浮かぶ。

やる気が出ない、なんだか重苦しいという時も、歩くことで、心と体をチューニングするようになった。

ピアノの調律みたいに、自分の芯にある音を思い出し、探り当てる作業。「小さな違和感を雑に扱わない」と一つ前の投稿でも書いたけれど、心体共に日々生じる無理やズレは、少しのうちに軌道修正していった方が、本来の自分を見失わずにすむ。自分が遠くにいく前に引き戻せるような、そんな感覚。

正体不明の感情や、仕事をしたり家庭にいたり友人と接したりする時に必要な役割や社会性みたいなもの。歩数を重ねていくごとに、玉ねぎの皮をむくように、「自分」の周りを覆うそれらが少しずつ剥がれていく。
私の軸は何だろう、本当の気持ちはどこにあるんだろう。
その答えを探すため、今日も歩いている。

 


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?