泊木 俊太郎
ほのぼのな日々のこと。
泊木 空 「ここは秘密の園 ①」
私、泊木空、名前を変えます。 これからは「泊木俊太郎」を名乗ります。 理由はふたつあって、 同じペンネームの方がどうやらいらっしゃるということをつい最近知ったことと、 プライベートで下の名前を呼ばれる機会が多いので、 いっそのこと変えてしまおうかと思いました。 来年からは名刺もつくり、目標は、自分の本を出版することですが、そこに記名する名前はすべて「泊木俊太郎」になります。 文学賞への応募もすべて。 そうだ、新しいサインつくらないと。 どうぞ、これ
ぼくのうまれたひのつぎのひに、谷川俊太郎さんは亡くなった。 よくはれていたひだ。ほんとうの天気はおぼえてないけど、なんとなく、はれていたようなきがしている。 あおぞら。 はれぞらにふくかぜ。 あおばのむっとするくさいきれ。 おちばがとけるふようど。 ひのひかり。 したのなまえがおなじために、しょうがくせいのころからよく知っていた谷川俊太郎さん。この二十年間、かおとなまえをおもいだしつづけた、ぼくにとってのひとりのしじん。 いつかは会いたいなともおもわなか
第19回ちよだ文学賞の冊子が届いた。 待ちに待ったスプラッタ・タイムである。 プロの、それもプロ中のプロの小説家御三方に読んでもらった。 唯川恵さん、逢坂剛さん、角田光代さん。 名前を口にするだけでも震えそうな小説界の重鎮たち。 彼らの選評がのったこの冊子。 早く読みたいような、一度としても読みたくないような。 今日、おそるおそる読んでみて、驚きがいくつもあった。 そして、感動した。 ◆ 作品の特徴や、欠点を述べてくれる文章の裏側に、作者であ
あかん。来月21日〆切新作小説、自分自身が興味もてなくなって、ボツ。 ノルマ36000字中10000字の文字たち。小さき獣たち。このままでは下書きという名の保護施設行き。 興味なくなる病が一番の恐怖。 どうにかして救い出せないか。
私、泊木空の属する文芸誌「行街」が、12月1日の文学フリマ東京に出店します。 文学フリマ東京との関わりはじつは大学時代から。 大学生の時、友人と同人誌を作って販売したことがあるのです。 それから去年、敬愛する旗原理沙子さんの本を買いに行ったり、大好きな閑窓社さんの新刊を買うために行ったりと、なにかとご縁に恵まれた場所でした。 今年、大学時代の友人とは異なるふたりの仲間と新たに文学フリマに参加できるということ。いろいろな思いが湧いてきます。あのとき失敗したことをも
四月の応募作がちよだ文学賞の最終候補に残った。 ありがたい年である。 今年は、新潮新人賞の予選通過とちよだ文学賞の最終候補選出という結果を出すことができた。 書くことを全力で考えるようになった年から去年まで、なんの成果もなかったけれど、ようやく芽が蕾になった、と言いたい気持ち。 最終候補に残った本作。 綿密な計画を立てて書いたのではなく、勢いで書いた――と言うとよくある「考えるよりも勢いが大事」系に偏るきらいがあるけれど、新潮新人賞を予選通過したお話は「勢い
「泊木俊太郎」という名義で、新潮新人賞の予選を通過した。 じつを言うと、中学生のときから書き始めて十一年目にしてようやく手にした、私の短い人生における少ない快挙のひとつである。 予選を通過したことは誇らしげに語るものじゃない。 それは受賞ではない。選ばれた、かもしれないが、同時に捨てられた、でもある。 と言いつつ、ちゃっかり個人noteのアカウントには「第56回新潮新人賞予選通過」と書いたけど。 それぐらい嬉しいものだ。喜んでいたいのだ。 しかし、じつのとこ
関西人の友だちが世界一周旅行を終えて帰ってきた。 駅の改札を出て、ひとの行き交う田舎の町通りを歩いていると、 「エエなァ~~、日本エエなァ~」 彼の笑顔は、頬の皺から幸福がこぼれ落ちそうなほど眩しい。 つけ麺が食べたいというのでつけ麺屋に行ったが、以前にも行ったことがあり、あんまり美味しくないな、というレベルのお店だった。でも、このあたりでつけ麺って言ったらここしかないし。 そんなつもりで、カウンターに並べられたつけ麺に手を付け、頬張る彼の顔を見る。
芸術作品には縦糸と横糸がある、というお話。 織物は縦糸と横糸を編み合わせて生まれるように、芸術作品にもそれは言えること。その場合の縦糸とは「天と地を繋ぐ力」、横糸とは「人間的な力」なのだそうだ。 天と地ってなんぞや? これがちょいと難しくて、私なりに解釈したものだと、地は人間・作者を含めたすべてのことで、天は目に見えないもの・神的なもののことらしい。 天衣無縫と言うように、素晴らしい作品は人間以上の、なにか大いなるものの存在さえも感じさせることがある。ゆえに縦糸をも
トレーニングジムの受付員は、週に四回は私の顔を見るはずだ。 四回というのは、四つのパターンに分けて、一日一日、それぞれ別の部位を鍛えていることを示している。 胸・背中・腕・脚。 一ヶ月ほど通い続けて身体の変化も現れてきた。 思わずうっとりさせてくるときがある、私の身体が。 美容院で鏡の向かい側に座ったときや、電車に乗って窓にもたれたとき。銭湯で、一糸まとわぬ姿になったとき。 自己愛的、と言われても仕方あるまいが、大切に育ててきた筋肉を、他のひとの目に映る場所
内藤礼さんの、「生まれておいで生きておいで」展を、見に行った。 東京国立博物館内で三つの会場を渡り歩く、不思議なインスタレーション。 始めの会場は、最も薄暗く、神秘的な部屋。様々な色のモールや透明なビーズがたくさん、長い糸で吊り下がっている。 部屋の中で明るいのは、展示用のガラスだけ。いつもなら向こう側に展示品が置かれているそれには、柔らかそうな白い布が敷かれており、点々と、いろいろなものが置かれている。 白くて丸いもの。 鏡。 縄文の土器。 ガラスの
雨の日。 今日は、おも~~~~~~~~~い!!! 気圧の変化に対して叫ぶわけにも行かず。 ほんとはしたかったことも、志半ばで中断。 大好きなカントリーマアムをぽりぽり食べながら、晴耕雨読。 雨が降る日には行動せず、明日のための考え事をしたり、音楽を聴いたりするに努めます。 晴れが陽なら雨は陰。 陽は、行動するべき時。陰で溜めたエネルギーをここぞとばかりに利用します。 陰は、なにもしないべき時。陽で使ったエネルギーの器を洗い、丁寧にタオルで拭いて、じっくり眺める。ふだん
「こころのままに、自然体で生きよう!」 私、この考え方が生きる真理だと、いままで思っていました。 お金を稼がなきゃ、社会人として真っ当に生きなきゃ・・・そんな考えは頭の思考から生まれるもの、つまり通俗的なものであって、こころの姿にはフィットしない。 ということは、こころの姿に気づき、こころの姿になることこそ、幸福がそこに眠っているんじゃないか? そうして、退職してから三年間をかけ、こころがなにをしたいのか耳を傾けることを修行し、できるだけ現実的な生活の中でこころの求め
文豪たちの、過去に作られた作品を読んだり見たりして思うのは、 「え、こんなに豊かなものから影響を受けてしまってもいいの??」 先人たちは、それこそ当時の本気を尽くして勉強したり考えたりして作品を作ったわけ、なのだ。 先人の人生にとって一番豊かな稔りが作品だとしたら、それを味わえちゃう私たちって、すっごく贅沢なんじゃないか。 ホクホク、いい気分🍠 でも、ちょっと考え方を変えてみました。 先人たちの豊かな稔りによって生きる私たちは、その稔りを受け取って、さらに豊かなも
カリカリカリカリ。 私の気持ちは、尖がらせた鉛筆の芯。 モヤモヤあいまいな交流や出来事に区切り線を引き、 ピッピッピ! すべて効率良く済ませる。 とっても気持ちがいいです。ぜんぶ、自分でどうにかできるし、うまく行く気しかしないんだもの。 ひとが困っていたら、できる範囲で助けてあげる。 相手が解決の糸口を見つけられるように、一緒に考えて、ひとつの解決策を提示します。 それに喜んだ相手から一言。 「ありがとう!」 ・・・あれ、感謝されたのに、なんだか嬉しくない。 モ
『悪は存在しない』という映画を見て、ムムッ、ピーン!ときたのでネットレビューを調べました。 すると映画を分解・考察する投稿が多いのですね。 監督の意図は?物語の真意は? 衝撃的なラストに引っ張られて、そもそも何を見ていたんだ?と不思議が湧いたムヤムヤを昇華したいのかな。 意図や真意だけを追いかける考察の入口では、この映画のほんとうの豊穣を味わえないと思います。 『悪は存在しない』を見て人生が変わるひとがいるかもしれません。 とくに映画に慣れておらず、あるいは若者、また