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こころで生きるエゴイスト


「こころのままに、自然体で生きよう!」


私、この考え方が生きる真理だと、いままで思っていました。


お金を稼がなきゃ、社会人として真っ当に生きなきゃ・・・そんな考えは頭の思考から生まれるもの、つまり通俗的なものであって、こころの姿にはフィットしない。

ということは、こころの姿に気づき、こころの姿になることこそ、幸福がそこに眠っているんじゃないか?


そうして、退職してから三年間をかけ、こころがなにをしたいのか耳を傾けることを修行し、できるだけ現実的な生活の中でこころの求めていることを実現させることはできないかと、あくせく努力しました。


その結果、昔に比べて、幸福度がグンと増しました。


ようやっと、自分らしく生きられるんだ。
毎日が新しい自分のハッピーデイです。

ひと目を気にして生きるのが普通だ、ということを頭で考えるのがエゴであり、不幸を生むものもエゴであると思っていた私には、
こころの自分が満足できる姿こそエゴから解放された姿だと感じていました。

しかし、ほんとうは違うのです。

こころの自分が満足する、というのも、じつはエゴ。



エゴについては、以前もエッセイで書いてきましたが、なかなか自分の人生を惑わせるくせもの。

エゴがどうという話は置いておき、


こころが納得すれば、つまり満たされることをしていれば、それでいい。
やがて現実もこころの思うかたちとなり、その通りに流れていく。

という考え方があります。

有名な、引き寄せの法則ですね。

じっさいそれが間違ってはいないということを、私は実感してきました。

自作の小説をさらに高めるために、批判してくれるひとが欲しいと思い続けていたら、大学の同級生の文芸サークルから呼びかけられ。
お金がなくて本が買えないと困っていたら、店じまいする古書店が無料で古書をプレゼントしているのを見つけたり。
行きたい映画や観劇の席予約をとってもらう機会に恵まれ。
自分がこころゆくまで不快にならない仕事だけをする、と決めていたら、初めは見つからなかった仕事が、低賃金でありながら充足には困らない給料で、いまではいくつか見つかり。

時間はかかるかもしれないけれど、
こころの思うことを忘れず、曲げずにいれば

いがいと叶ってしまうもの、なのですが・・・


「こころの自分が求めることは、正しいこと」

「こころの自分が本体であって、頭は付属品にすぎない」

「ほんとうの幸せはこころが生むもので、頭はエゴだから、不幸を生むのだ」

「こころの自分が思うままの姿で生きよう」


うっかり、そう考えてしまいます。

私はそう考えて、この一年間ぐらいは生きていました。

でも、じつはここに落とし穴があって、
こころの求めることも半分は、自分に不幸を生むエゴなのです。


◆◯

へ。どゆこと?

えっとね、書き分けると難しいのですが、
「こころがこうしたがっている」というのと、「こころがこうすると心地よさを感じる」というのは、全く別物なのです。

こうしたがっている、というのは、頭が外界から仕入れた情報によってできあがった欲求。

私であれば、「書き物をして生計をたてたい」「自給自足をして暮らしたい」という欲求。
一見、こころが心地よいと感じることのように見え、やってみるとこれこそが自分のほんとうの姿なんだ!と思いがちですが、これは頭が作ったエゴの裏返し。

それを裏返して、表にすると。


「会社員としてお金を稼ぐことは苦手だし、したくないから、別のことでお金を稼ぎたい。だから書き物をしよう」

「そもそも人並みに稼ぐのは大変だから、お金を稼がず生きる術がほしい。だから自給自足をしよう」


お金お金人並みお金。うっすら、こうしなければならない、というエゴ人間。まるで不幸の再生産。
ほら、頭で作ったエゴになるでしょう?
(にしても、私ってお金のことばっかり考えているんだな。。)


対して、「こころがこうすると心地よさを感じる」というのがどういうことかと言うと、
私で言えば、「文章を書いて物語を作るのが好きだ」「植物を育てて面倒を見るのが好きだ」ということです。

好きだ、という気持ちと、こうしたい、こうしなければ、という欲求は別物。

好きだ、という気持ちは、純粋な善い感覚ですが、
好きだからし続けていたい、たとえばゲームが好きだから永遠にやっていたくて風呂に入らない、というのはエゴの欲求とその弊害。

ふたつは直感の要素が分かちがたく結びついていて、自分の中ではなかなか言語化して区別できず、見分けがつきにくいのが難しい。

はっきりしているのは、こころが好きだと感じるときを大切に思いながら生きるのではなく、ただこころが求めるまま生きると、
不幸を生むエゴの弊害から逃げているはずなのに、エゴの中に駆け込んでいくことになるという点です。

これをすれば快くなれる、これが自分の求めていた行動なのだとそればかりをしているうちに、
快くなる気分を忘れて、そこにそぐわない他人を跳ね除けるようになり。
こころが満たされているのに、他人が不快を被っているから、気がつけば孤独になる。
孤独になろうと思っていなかったのに、不覚にも。

それを宿命と捉えるか、はたまた改善の余地があって、もっと平和に生きることができると考え直すかは、そのときの自分次第。

それに気が付かなければ、きっと人生が変わっていきます。


とっても恐ろしいことだと思いませんか?


◆◯◆

でもこんな話は、きっとだいぶ後の問題です。

大方のひとはまず、頭の作り出すエゴ、つまり通俗的な考え方から解放されるためにこころを見つめることから出発します。

それが大切な、最初の段階。

こころの姿が分かったら、それと同化して、こころゆくまで楽しむ。自他なりふりかまわずに。それも大切な次の段階。
で、楽しむことを突き詰めた結果、こころの求めるものを実現することがエゴを生むことに気づき、どこに向かってもエゴがあり、それを完全に切り離すことはできない、と知ること。

すると、頭から生まれるエゴであれ、こころから生まれるエゴであれ、それらが日々の生活の中でどんなふうに現れるのかが見えてきます。


「あ、いまのエゴやん」


それに気づいたら、覚えておく。
エゴの正体が分かってくれば、エゴと親しくなって、エゴに語りかけることだってできるようになるでしょう。


『ねえ、ちょっと待って。エゴ、出すぎじゃない?』


エゴと対話できれば、きっと、こころの好きなことを好きなままに行いながらも、エゴイストになることはありません。

一朝一夕じゃ、エゴと親しくなれないよね・・・
大変だけど、親しくなりたいなあ。


これからきっと、なれるかな?






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