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まともっちゅうのもけったいなもんやデ

 

 関西人の友だちが世界一周旅行を終えて帰ってきた。

 駅の改札を出て、ひとの行き交う田舎の町通りを歩いていると、

「エエなァ~~、日本エエなァ~」

 彼の笑顔は、頬の皺から幸福がこぼれ落ちそうなほど眩しい。

 つけ麺が食べたいというのでつけ麺屋に行ったが、以前にも行ったことがあり、あんまり美味しくないな、というレベルのお店だった。でも、このあたりでつけ麺って言ったらここしかないし。
 そんなつもりで、カウンターに並べられたつけ麺に手を付け、頬張る彼の顔を見る。

「う、うんめぇぇぇぇ~~~~~~」

 すごく美味しそうに食べるではないか。
 いったいどんなものを食べてきたんだ。

「最後に行ったアメリカって物価が高いし、あんまり美味しくないんですよ。ペルーの料理は美味しかったかな。結局、イタリアとスペインでもカルボナーラとパエリア食いましたけど、日本人向けの味付けされたやつが美味しいって思いました。」

 一息に流れ出す、五カ国の名前。
 それだけでも凄いけれど、クロアチアもトルコもブラジルも行ったそうで、たぶん、話を聞いたけど私が忘れている国もあるだろう。

 友人はさらりと言うけれど、あやうくマフィア街に入り込んだり、ちょっとしたアジア人ヘイトを食らったり、財布落としたりフライト取り直して10万払ったりクレカ使えなくなったり、「生きて帰れるか?」と思わず考えてしまう危険な道中だったそうだ。


◆◯

 一年前、彼は整体師見習いとして、会社で働き始めた。
 ゆくゆくは自分で店を開いて稼ぎたい、実地経験が積めれば、という目的のために。しかし、欲しい経験を得られないと判断して辞めると、世界一周旅行に出た。

 そう書くと、自分探しの旅だと思う方も多いだろう。違うのである。彼が言うには、成し遂げたい大きな目標があって、そこに至るまでの小さな課題のひとつが世界一周旅行なんだそうだ。
 なんでそうなるん。

「それを終わらせてはよ次行きてーなァ、みたいな感じです。」

 世界一周に時間を割くより、仕事みつけて整体の勉強したほうが”身のためになる”んじゃないか・・・どうしてもそう考えてしまった。しかし、私の目線ではなく彼の目線で考え直してみたとき、納得した。

 彼は、一般的な人生の目標とは異なる目標のために生きている。

 極端に言えば、結婚し、子どもを持ち、70歳まで働き、年金をもらいながら余生を過ごして死ぬ、そういったテンプレートの人生と、彼の求めている生き方が全く異なっているのだ。

 つまり、テンプレート的助言は、彼にとってなんら”身のために”ならないのである。

 店を開くという目標はあれど、ただ勉強をして経験を積んで開く、というだけでは目標達成には至らない。整体師として生きるのも、人生の大きな目標の中の、ひとつの小さな段階なのだ。
 どれだけのひとが、そのことを理解してやれるのか。大方のひとは私のように「世界一周になんて時間を割くなよ」と思ってしまうのではなかろうか。

 私の別の友人には、誰かのもとで働くことが肌に合わず、仕事を辞めて起業したが、「まともな」人生から離れてしまうことを恐れ、反対側から必死に近づこうと――社会に合わない自分なりに近づこうと努力しているものもいる。

 ふたりとも「まともな」生き方には肌が合わないという人間同士だが、こうしてまるで異なるアプローチで生きているのを見ると、自分なりの道筋を信じてもいいんだな、と思える。

 正解はないのだ。

 誰かから言われる正解もないし、自分で見つける正解もない。そこには現実問題と結果だけがあり、あなたはどんな結果が欲しいのか、そのためにどんな方法で解決するのか、解決のために心の底から努力できるのか、それだけなのではないか。


◆◯◆

 私も、世間から見れば、彼らと同じ(まともが肌に合わない)人間である。

 先日、とある文学賞の最終選考で落選した連絡が入り、これからどうやって生きようか、と考えていたところに、たまたま三週間前に予約していた、山籠り瞑想合宿の空きが取れた。一年に一度はお世話になっている。今年も取れて良かった。
 今回の瞑想合宿もきっと、これからの生き方進み方を考え直すきっかけになると予想している。

 人生に正解はないけれど、正解だったと思える選択を選んで、できる限りやり残しなく悔恨なく生きたい。

 それが立派な冥途の土産になる――現世を生きた思い出話の花になるのではないか。

「そーんなけったいなこと考えずにパーっと生きたらええねん。考えるの好きとちゃうか? 疲れてまうデ。」

 確かにその通りだ。
 つい真理っぽいことを考えようとするのは私の悪い癖。

 
 とりあえず、夏祭りでも行ってこよーっと。

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