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優しさは、どこへ?
カリカリカリカリ。
私の気持ちは、尖がらせた鉛筆の芯。
モヤモヤあいまいな交流や出来事に区切り線を引き、
ピッピッピ!
すべて効率良く済ませる。
とっても気持ちがいいです。ぜんぶ、自分でどうにかできるし、うまく行く気しかしないんだもの。
ひとが困っていたら、できる範囲で助けてあげる。
相手が解決の糸口を見つけられるように、一緒に考えて、ひとつの解決策を提示します。
それに喜んだ相手から一言。
「ありがとう!」
・・・あれ、感謝されたのに、なんだか嬉しくない。
モヤモヤ、ウツウツ。すなおに感謝を受け取れません。
むしろ、
「私の手助けでこのひとばっかり上手くいく」と卑屈な考えにも。
これまでずっと、自分の力を他人に注ぎ込むことに喜びを覚えていたのに、いまでは、それさえ借りを作ったつもりになっているような、非常に貧しい気持ちなのです。
なーんか、ヤな感じ。
ふと、思いました。
「あれ、私って優しくない?」
優しい行動をしたはずなのに、それが思いやりから出たものではないから、相手を思いやるときの温かい気持ちにならない。
なんでだろう?
私の優しさ、どこに行ったの?
答えは簡単でした。
愛情を注ぐものに、いつものように注げなくなったこと。
言い換えるとこころの運動不足です。
私が庭で育てているトマトの苗は植え付け後も順調で、すっかり根を生やして元気に育っています。
種から育てて「これから植えるんだ、大丈夫かなあ?」と思っていた頃が一番こころも張り切り、活力を発散していました。
それが、夏になるまでは見守るだけでいいという状態になり、これまでのような活力を発揮しなくてもよくなってしまったのです。
満ち足りているはずなのに、なにかが足りない。
活力が胸の奥から流れ落ちてしまう感じがする。
ああ、また種から育ててハラハラドキドキしたいな。面倒を見てあげたいな。
まるで子育てが終わった後のような気持ちです。
なんだか、何もやりたくないような気分が続いているけれど、どうしたら、こころの運動不足が解消できるんだろう?
ヒントはきっと、新しい思い出を作ること。
新しい思い出を作ればそれが活力になり、なんとなく過ごしていた日常も真新しく生まれ変わったように見え、
「生きていてよかった!」
自分が自分であることに喜びを感じられるでしょう。
新しい思い出を作るなんて・・・趣味だってほとんどないのに。
いえいえ、なにか行動を起こせば当たる、豆鉄砲じゃないんです。
新しい思い出をちゃんと作るのは、過去の思い出を丁寧に思い返すことから始まります。
子どもの頃、どんなことに胸をときめかせていたかな?
毎日の給食。登下校に見つけるカナヘビ。新しい髪の毛の編み方。クラスで育てていたピーマンの観察。固めて並べた泥団子。秘密基地を作ろうと、いろんな隅っこを探して歩いた小さな旅。自由帳に書いたギャグ漫画。町のケーキ屋さんでケーキをどれかひとつだけ買うときの、きらきら輝くショーケースを見つめていた子どもの私。
気がつくと、胸の中に見覚えのある子が座っています。
「きみ? なんで悲しそうな顔をしているの」
その子は顔を上げると、泣きじゃくりながら、
「これがしたいんだ、あれがしたいんだ、どうしてやってくれないんだ!」
そんなことを訴えてきました。
ためしに言われた通りにやってみる。すると、その子は明るく笑って、
「ありがとう、大好き!」
こんどは、感謝された喜びがほっと胸に湧いてきます。
ああ、この子が満足できるようなことをしてあげたら、私も幸せなんだなあ。
そうして自分が満たされていることに気がつくのです。
行動するのと同じくらい、自分のこころの話を聞いてあげることに時間を割くと、こころだって話を聞いてもらいたくてウズウズしているんですから、嬉しくなります。
そうすれば、どんなことをしたら自分が幸せになれるか、愛情をもてるかということが分かるのです。
こころの子育ては、永遠です。
ちなみに私は、これを書いていて、久しぶりに書く楽しさを思い出しました。
なんかワクワクしてる。
この、なんか、とかなんとなく、っていうことが、幸せの生まれるところなんじゃないかなあ。
こころの子育ては、なかなかうまく行かないことも多いけれど、
面倒を見た分だけ、たっぷり人生を豊かにしてくれますよ。