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目に見えないものを信じる?
文豪たちの、過去に作られた作品を読んだり見たりして思うのは、
「え、こんなに豊かなものから影響を受けてしまってもいいの??」
先人たちは、それこそ当時の本気を尽くして勉強したり考えたりして作品を作ったわけ、なのだ。
先人の人生にとって一番豊かな稔りが作品だとしたら、それを味わえちゃう私たちって、すっごく贅沢なんじゃないか。
ホクホク、いい気分🍠
でも、ちょっと考え方を変えてみました。
先人たちの豊かな稔りによって生きる私たちは、その稔りを受け取って、さらに豊かなものを実らせなくてはいけないのではなかろうか。
時代は変わる。百年と言わず、十年でも変わる。
その時代ごとに稔りの種類も変わるはずだ。
◆◯◆
いまの時代は昔に比べると、感受性の時代だと思う。
かつてが理知的な構築による芸術の時代であったなら、いまは感覚的な脈絡から構築する芸術の時代。
時代のランドマークとして、極端にわかりやすいものは、宮崎駿の「君たちはどう生きるのか」。
映画にしても、文学にしても、感受性を敏感に尖らせ、それが拾い上げる物質で作り上げる作品が増えている。
私の推し作家、旗原理沙子さんが文學界新人賞を受賞した「私は無人島」はそこにある物語だと思う。
そういった作品は、頭では理解できない。
でも、なんかスゴイ。迫力がある。
言語化できないことや超時間的だったり感覚的なことが書かれていると、「スピリチュアル?眉唾」と思われることがあるけれど、分かることだけを分かっていればよかった時代は過ぎつつあるようなのだ。物語は信頼に足るロジックを失い、まっすぐではないストーリーの骨組みが、奇妙な弧や角張りを見せながら繋がり、物語を独特に構築していく。
これまでは数人だけが行っていたことが、時代の潮流になりつつある。それは芸術家の作品たちが強く示している。
もちろん、それだけが芸術のすべてじゃないけれど。
でも、これからは分からないことも評価できるといい。
もしかしたら評価なんて必要ないのかも?
考察の時代は終わり、いかに感受できるかが求められるおかげで。
あらゆる不可視のものを楽しむのも、こころの遊びにきっとなるはずだ。
【ミニ話】では、エッセイ未満・感想文以上の文章をお届け。
ひとつの真実を書こうとするのではなく、ひとつの真実を眺めて多様な切り取り方をする、ゆる~い記録簿です。