もっと鼓動を信じて。こころは嘘と言い訳の天才だから。
【この記事は1分で読めます】
“10年も英語を勉強したのに喋れないのは、なぜ?”
これは、わたしが以前勤めていた会社(米国系の教育関連企業)が、ビジネス系雑誌や日経新聞に掲載していた広告コピーである。
言葉はスポーツと同じで、体で覚えるもの。だから、外国語も初めから勉強として捉えているうちは身に付かない。日本語だって、みんな五感を使って覚えたはず。ちなみに、わたしが勤めていた企業の親会社が米国で展開していた広告コピーは「Act Like a Baby」だった。
人はどうしても、“あたまとこころ”を過剰に信じてしまう生き物である。こころなんてホント嘘つきで言い訳だらけなんだけど、信じるのをやめられない。心理学やコーチングを学んだ人なら、Creative Avoidance(創造的回避)という言葉を知っていると思う。
毒親の元から逃げようと決意しても「わたしがいなかったら、母はなにも出来ない」と思って躊躇してしまったり、モテない自分の現実を認めたくないから「結婚には興味がないんです」と本音でもないことを公言したりするのもこれに当てはまる。
直感で思いついたことの「逆」を実行するほど、本当に役に立つ発見は多かったりもする。直感だって、無意識レベルでは“本人”による選別が行われている。手放したくないと大事に抱きしめた未来予想図ほど、未来を迷路にしてしまうのだ。
Can you hear my heart beat?
わたしは煮詰まった頭をリフレッシュしたいとき、よく地元横浜の山下公園周辺をぶらぶら散歩したりする。日没前の山下公園は特におススメで、そこにいるだけで気持ちがいい。わたしが十代の頃から敬愛する佐野元春さんの隠れた名曲『HEART BEAT(小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド)』(1981)は、このあたりを舞台にして作られた。
この曲は “Can you hear my heart beat?” という小さな叫びとともに終わる。聴く者への問いのようだが、それはこの曲の主人公が自分自身に問いかけているとも解釈できる。
すべてを失っても、どんなに孤独な環境に置かれたとしても、最後に自分を守るもの、それが“自分”というもっとも理解しがたい存在であるのはなんとも“皮肉”なことだろうといつも思う。
けど、人は自分の鼓動によって生かされているということを忘れてはいけない。鼓動には、どんな崇高な意識によって形成された自我さえも通用しない。まさに、神聖とも呼ぶべきこころのベース音なのである。
本質(骨と随)を理解せず、表面(皮と肉)だけしか見ないこと、それが皮肉という言葉の語源らしい。体は個人の所有物ではないとわたしは考える。なぜなら、いちばん深い所を自分では見れないからだ。
こころも同じ。こころが生体という物理身体から派生している以上、本当に深い所は自分でも分からない。だからこそ、Beat(鼓動)をもっと感じられる生き方をしていこうではないか。鼓動は、あなたが持っている嘘のつけない唯一の表現手段なのだから。
Live your life !