#147 神社で祈るお坊さん【宮沢賢治とシャーマンと山 その20】
(続く)
私が宮沢賢治やその時代の宗教的背景に興味を持つきっかけとなった、日蓮主義の田中智学の
「インドの釈迦の一族が東方に移住した結果、日本国を作った天皇の一族のルーツとなった」
という現代では馴染み難い理論が、なぜ生み出されることとなったのか?
仏教の一宗派である日蓮の教えを説く田中智学にとって、当時の国家体制を支えた国家神道と、思想的な整合性を図ることは、重要であったのかもしれない。
本来、大陸からわたってきた歴史を持つ仏教と、日本古来と言われる神道は相容れない側面を持つ。そのため、新たな国家体制を築こうとした明治維新において、外来の仏教の影響力を低下させ、日本の伝統的な神道を精神的支柱に据えようとしたのも理解できる。
江戸時代までは、神社の中に寺があることや、寺の中に神社があることが普通で、これがいわゆる神仏習合だ。当時は、神主が寺で、僧侶で神社が祈ることに違和感はなかったのであろうが、現代ではイメージが難しい光景でもある。
維新後は、国家神道を確立し仏教の影響力を薄めるため、神仏分離や廃仏毀釈が巻き起こり、その波は当初の目論見を超えて拡大し、仏教界は大打撃を受けた。想像絶する程の貴重な仏教建築物や仏教美術等が、この時に失われたと言う。
明治維新の廃仏毀釈や神仏分離によって決定的な打撃を受けた仏教であったが、浄土真宗を中心に徐々に巻き返していく。それでも維新政府の信仰の中心は国家神道であるため、国家体制の中に仏教が組み込まれていた江戸時代以前と比べ、厳しい立場であったろう。
そのような状況下で、仏教、日蓮の教えを説く田中智学にとって、国家体制を支える国家神道と思想的な整合性を図ることは、日蓮主義の伸展にとって有効だったのかもしれない。実際に、智学の日蓮主義は陸軍の石原莞爾などに支持され、日本の帝国主義の精神的な拠り所ともなり、勢力を拡大する。
しかし、神主が寺で、僧侶が神社で祈る姿を想像できないのと同様に、仏教の一派である日蓮主義と、国家神道が結びつく姿を理解することは、現代においては感覚的に難しい。
【写真は、奥日光二荒山神社にある男体山登拝口の鳥居説明書き】
(続く)
2024(令和6)年3月9日(土)
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