短編集「注文の多い料理店」の1924年12月1日の発刊から数え、今年2024年12月1日はちょうど100年目となります。 岩手県盛岡市にある古本店の「ポノブックス」では、「注文の多い料理店100周年トーク」として、宮沢賢治記念館の牛崎敏哉氏をゲストに迎え、「賢治と早池峰と異世界」をトークテーマとしたイベントが開催されます。 ご興味のある方は、下の申込みフォームのリンクからお申し込み下さい。 https://docs.google.com/forms/d/1f68jF-_
(続き) 短編集「注文の多い料理店」の1924年12月1日の発刊から数え、今年2024年12月1日はちょうど100年目となります。 岩手県盛岡市にある古本店の「ポノブックス」では、「注文の多い料理店100周年トーク」として、宮沢賢治記念館の牛崎敏哉氏をゲストに迎え、「賢治と早池峰と異世界」をトークテーマとしたイベントが開催されます。 ご興味のある方は、下の申込みフォームのリンクからお申し込み下さい。 https://docs.google.com/forms/d/1f
短編集「注文の多い料理店」の1924年12月1日の発刊から数え、今年2024年12月1日はちょうど100年目となります。 この短編集には、表題の「注文の多い料理店」をはじめ、「どんぐりと山猫」など9編が収録されています。生前の賢治の出版物としては、他に詩集「春と修羅」があるのみで、どちらもほとんど売れなかったことが共通点です。 そして、賢治の死後、その価値が高く評価されていることでも共通しています。 短編集「注文の多い料理店」には、先に挙げた作品以外にも、「月夜のでんし
(続き) 一方、現代の日本では、信仰について表立って語られる機会は少ない。仏教を意識するのは、ほぼ葬式の時だけ、戦前に国家を挙げて信仰が進められた国家神道に至っては、そのストーリーを知る人も少ない。 現代からは賢治の時代の信仰を想像することも難しく、その時代と現代との距離感を図ることすら難しい。それでも、賢治を通じて眺める大正~昭和初期の日本の信仰や思想は、現代と比べられないほどの多様さを持っていたように思えてならない。 今回の原稿では、賢治との関係の有無は別としても、
(続き) そしてまた、賢治の信仰や思想に対する強い興味や関心を十二分に満たすだけのバラエティーに富んだ信仰の世界が、賢治が生きた時代には存在していたとも思われる。 現代は、第二次世界対戦の敗戦による国家神道の抹消と、明治維新による神仏習合の抹消を経て、日本において長きにわたって続いた信仰の形がほとんど見えなくなっている。 しかし、一見すると表面から消滅しながらも、それらの信仰の形は依然として日本人の根底に生き続け、特にも神仏習合は、日本人にとって千年以上続いた、日本を特
(続き) これまで見てきたように、明治維新以前の、驚くほどバリエーション豊かで、複雑に関連していて、かつ、当時の人々にとって身近だったと思われる信仰の形は、本当に興味深い。 そして、賢治とどれほどの関係があるかわからないとは言うものの、賢治はそれらの信仰にたいする、一定の、或いは、深い知識と理解を持っていたように思える。例えばそれは、天台宗比叡山延暦寺の中枢にある根本大塔の脇に、日蓮宗という他宗派を熱烈に信仰したとも言われる賢治の碑が立っていることに示されているのではないだ
(続き) 「宮沢賢治は何をしようとしていたのか?」 と、時々考えることがある。 現代では、文学者としても知られているが、おそらく職業作家になろうとしていた訳ではないだろう。賢治自身も、自分は作家になろうとしているわけではない、と語っていたような記憶もある。 また、西行の歌には、同時代の歌が持っていた技巧的な側面が薄いという事を読んだ記憶がある。西行の歌は、現代に生きる私が素人目で読んでみても、歌の前提条件となっている知識や背景を気にすることなしに理解できる、わかり易い歌
(続き) 賢治の足跡と、松尾芭蕉や西行の足跡が、なぜか時折重なる、という事について触れてきたが、それは偶然だろうか?意味があるのだろうか? 芭蕉は「おくの細道」に代表されるように西行から大きな影響を受け、西行の足跡を辿っていることから、もしかすると、西行の足跡と賢治の足跡の共通性について考えた方が良いのかもしれない。 白洲正子が書いた「西行」の中に、気になる部分があったので、引用してみる。 「西行は、天台、真言、修験道、賀茂、住吉、伊勢、熊野など、雑多な宗教の世界を遍歴
(続き) 西行は、日本の信仰の特徴的な形式である神仏習合に大きな影響を与えた人物とも言われている。今回の原稿でもたびたび登場し、日本の信仰を考える上で欠かすことのできないのが、神仏習合という信仰の形だ。 西行は25歳頃に僧として出家した後、30歳頃からの30年程度を、高野山に生活の拠点を置いていたと言われる。高野山は、空海が開いた真言宗の総本山でもある。しかし西行は、生涯にわたって高野山の教団に組み込まれた訳ではなく、前述したように、真言宗のライバルとも言える天台宗の慈円
(続き) 西行が残した言葉に「和歌即真言」という言葉がある。これは、日本で生まれた「やまとことば」で書かれた和歌は、仏教で言うところの真言、マントラと同一であるという意味だ。 「西行の風景」(桑子敏雄)によると、空海がもたらした真言密教では、真言(マントラ)は、やまとことば、つまり日本語ではなく、仏教で元々用いられていたサンスクリット語でなければならない、という考え方があり、やまとことばよりもサンスクリット語が重要視される、とのこと。 サンスクリット語は、思想を表現する
(続き) 西行は、奥州藤原氏と同じく、藤原秀郷を祖とする家系に生まれた、と言われる。つまり、藤原秀衡と西行は同族だった。このことが、東大寺再建のための砂金を秀衡に依頼することとなった理由の一つと思われる。秀衡は、西行の依頼に応え東大寺へ砂金を送っているが、そういった東国からの砂金の流通を取り仕切ったのは、源頼朝だったと記憶している。 東大寺大仏殿の説明書きには、東大寺再建の経緯の説明として、 「俊乗房重源によって復興が着手され、源頼朝の絶大な協力もあって文治元年(1185)
(続き) また、宮沢賢治の信仰の足跡をたどりながら、様々な場所を訪れていると、平安時代末期の歌人、西行の足跡にもしばしば出くわす。西行は、松尾芭蕉が敬愛していた人物であり、東北地方には、西行の足跡とともに、西行の歌も数多く残され、芭蕉の「おくの細道」にも西行は登場する。西行は1118年に生まれ、1190年に亡くなり、1189年に滅亡した奥州藤原氏の繁栄と滅亡と同時代を生き、西行自身も平泉を訪れ、歌を残している。 芭蕉が「おくの細道」で辿った道は、芭蕉から500年程前に西行
(続き) これまでかなり脱線しながら、宮沢賢治を中心に、賢治を取り巻く信仰や人物などについて見てきた。その中で、武蔵坊弁慶や源義経、藤原秀衡などの足跡が登場したが、文中ではあまり触れなかったものの、他にも、賢治の足跡の周辺にしばしば登場する人物が何人かいる。 その一人は、江戸時代の俳人・松尾芭蕉だ。 芭蕉の代表作は「おくの細道」だが、芭蕉は「おくの細道」において、太平洋側の最北の地として平泉を訪問し、悲劇的な最期を迎えた義経一行や、奥州藤原氏に向け、涙を流している。 平
(続き) このように、宮沢賢治を父・政次郎が誘った比叡山の西塔とは、親鸞、聖徳太子、弁慶、摩多羅神など、様々な信仰が集まる聖地でもあり、天台宗の幅の広さを感じることができる場所でもある。 ここで政次郎が賢治に対して何を語ったのかはわからないが、賢治の日蓮主義に対する熱狂的な態度に変化をもたらそうとする場所としては、確かに相応しい場所であるように見える。伝教大師を記念する機会に合わせた偶然なのかもしれないが、政次郎にとっては、やはり千載一遇の好機として思惑があったのではない
(続き) 宮沢賢治の父・政次郎や宮沢家が信仰していた浄土真宗の開祖である親鸞もまた、比叡山で修行した人物だ。親鸞の修行の地は、根本中堂のある東塔から少し離れた西塔にあり、二人は、父の誘いで西塔へは足を運んでいる。 西塔での二人の目的地は「にない堂」だったようだが、にない堂とは法華堂と常行堂の二つ建物を指す言葉だ。親鸞の修行の地も、にない堂の近くにあるが、興味深いのは、聖徳太子もこの地を訪れたとされていることで、聖徳太子ゆかりの椿堂という建物がある。 聖徳太子もまた、法華