イデオロギーは悪なのか〈7〉

 イデオロギーは現実化されるということについて話を戻す。
 イデオロギーは現実化される、むしろ現実化されることによってはじめて見出される。しかしにもかかわらずイデオロギーは現実に対して先行している。これは一体どういうことなのか?
 イデオロギーをどのように詳細に定義づけるかはさまざまに議論があるとして、それがまずは一個の表象であるということについては前提として捉えて構わないだろう。そして表象=representationとは「再現」ということでもある(※1)。つまりイデオロギーは、現実のある事柄を「表象として再現する」ことによって現実化され人々に見出される、ということである。
 ある事柄は実際に、あるいは現実に、それが行為され表現される前からそれに先立って、言語や記号によってすでに表象されていると見なすことができるとして、それを実際の、あるいは現実の事柄が、その「すでにある表象」にもとづいて、その「すでにある表象を再現する」ようにして、実際にあるいは現実に行為され表現される。人はその表現に一個の意味を見出す。その「意味」がイデオロギーである。
 たとえば「歩く」という行為が言語や記号によって表象されているとする。その表象は、ある赤ん坊が実際に歩き始めるより前にすでに、歩くという行為として表象されている。そしてその赤ん坊が実際に歩き始めたときに人は「その行為」を、「歩くという行為だと認識すること」ができるところとなる。つまりその赤ん坊が「歩くという、すでに表象された行為を再現した」ものと見なすことができる。
 また、人はその赤ん坊が「何をしたのか?」と思い返すとき、その「歩くという行為の表象」を通じて、その赤ん坊の「実際の行為を、意識の上で再現する」ことになる。
 そのように、実際の行為が行為されるより前にすでに、その行為を、表象において表現することができるのと同時に、その行為が実際に行為された後に、それが「すでにある表象に対応した事柄=行為=表現」であること、つまりその「すでにある表象に照応した、実際のあるいは現実の事柄=行為=表現」であること、その「実際にあるいは現実に行為され表現された事柄」が、その「すでにある表象の再現」であることが、それを表象する言語や記号によって確認することができるということでもある。

 人はそのようなさまざまな表象によって、ある事柄=行為=表現をそれが単に偶然的・偶発的にあらわれたのにすぎないような、またそのようにあらわれた現象が何であったのかもわからず、したがってそれについて名づけようもない、ただ一時的に通り過ぎていってしまうような幻などではなく、それがまた再び行為され表現されたときには、それが何であるかがすぐにわかるような、そしてそれを迷うことなくそれとして再現することが可能であるような、それをそれ自体として理解し認識することができるような、それ自体として固有の名前を持ち固有の意味を持った、そしてその名前とその意味とを照らし合わせて、それ自体として確認することができるような「事柄=行為=表現」として見出すことができるものとなる。それ自体としては「それぞれ個別に行為・行動されている、個々の事柄=行為=表現」を、「一つの事柄=行為=表現として、現実において確認することができる」ところとなる。もし、AさんとBさんとではその歩き方や歩く姿は著しく異なっているのだったとしても、「歩くという、一つの表象」において、それを「歩くという、一つの共通した行為」として見出すことができるものとなる。
 そのように、「一つの表象」にもとづいてその表象を成立させる諸条件を、個々の個別の行為・行動が「なぞる」ようにして、その表象の諸条件を構成する「ある一定の行動様式を反復すること」によって、その事柄=行為=表現は「一つの事柄=行為=表現として、再現することができる」ところとなる。そのような、一定の行動様式にもとづいて実際に、そして現実に行動する、一定の人間集団において共同化された、その集団に固有の行動様式の表象が、「その集団のイデオロギー」なのだということになると言える。
(つづく)

◎引用・参照
(※1)柳内隆「アルチュセールの解読」

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