労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈6〉
すでに言ってきたように、労働市場で売買されているのは実際の労働ではなく、労働力という商品である。そのように「商品である労働力」が実際に買われ、そして一定の生産力を持った生産手段としてその使用者に専有的に使用され、つまり「商品として消費される」ことによって生産物は生産されるのだ。それが実際に市場において売られる「商品」となるわけである。
そこでは、個々の人間の生命と生活の維持のために消費される、個々の人間の生活手段あるいは生活資料が生産されているのであり、それが個々の人間の生命と生活の維持のために「絶えず消費される」から、そのためにまた「絶えず生産される」ことになる。そのように「絶えず消費されるもの」であるからこそ、それは「絶えず生産される」のであり、だからこそそれは、「絶えず売られ、なおかつ絶えず買われるもの、すなわち商品」でありうるのである。
あらためて言うと、個々の労働者は直接それぞれの生活手段あるいは生活資料を生産するために労働しているわけでは実のところ全くない。彼らはあくまでも、資本の生産手段によって生産された生産物を「商品として買うため」に、彼らは自分自身の労働力を「商品として売っている」のである。そして彼らが売った労働力商品を買ったその「使用者」が、その買った労働力を「自らの生産手段として使用する」ことによって、彼ら労働者の労働は「はじめて労働となることができる」わけだ。だからこそ「労働者の労働」は、「労働者自身のための労働ではない」ということになる。つまり「労働者が労働力として労働する」ということは、彼ら労働者が「彼ら自身のために労働する」ということ、つまり彼ら自身の生活手段あるいは生活資料を生産するために労働するということ「ではない」のだ、と言えるわけである。
労働者は、自分自身の所有している労働力を商品として売り、それを売って得た金で自分自身およびその家族などの生活資料を買って、自己自身および、現在すでに労働力たりえているか、もしくは将来的に労働力たりえる自分自身の家族すなわち自分の子どもの、その労働力を生産もしくは再生産する。それが労働者にとっての労働を「労働たらしめている意味合い」の全てである。
とすれば結局のところ、「賃金は労働の対価である」というのは、実際の話としては労働者の主体性を喚起するためのマジックワードであるのに他ならないし、また、そうであるのにすぎない。賃金が基本的に「後払い」であるのも、あたかも労働者が「そのために働いている」かのように見せかけるトリックにすぎないのだ。
労働者に支払われる賃金は、彼の労働に見合った金額というよりも、彼の生活手段の消費と、その再取得に見合った金額として割り出され支払われている。それが、彼の売る商品としての労働力を、その使用者が買い取りかつ専有するための費用であるということになる。それは、「彼の実際の労働」あるいは「彼の実際の生産」の「対価」ではないし、それに見合った費用として割り出されたものでもない。あくまでもそれは、彼の労働力を生産手段として専有することに対する「代価」なのであり、彼の労働力が使用者に専有されている期間内に、彼が消費し喪失する生活手段の再取得に見合った費用として支払われる「代金=賃金」の金額として、割り出されているわけである。
逆に言えば「彼の生活手段」は、その賃金の金額に「見合ったものとして再取得される」ことにもなるのである。もちろん、「こんな安月給では、とても生活など維持していけはしない!」と嘆き憤る労働者も個別には大勢いることだろう。しかし一方で、何らか一定条件下では「実際その安月給で何とか間に合っている生活」が現にあるものとして想定されており(では、それが「具体的にはどこの誰のことなのか?」というと、実際には誰もその具体例を知らないのだとしても)、その想定例が「消費され喪失された生活手段の、その再取得に見合う金額の一般的な基準」として、一般的かつ具体的・現実的に広く適用されることになるわけだ。そのこと自体については渋々ながらも、多くの労働者たちが現実として各々すでに受け入れており、だからこそ彼らの安月給は実際に支払われている、というわけなのだ。
〈つづく〉