不十分な世界の私―哲学断章―〔27〕
現に生きていることにおいて絶えず訪れる『現在』の、その次の瞬間としてやってくる『未来』について、私たちがもしそれについて何も知らないままでいて、ただそれに巻き込まれていくしかないのだとしたら、たしかにそれはどんなにおそろしいことだろうか。だから私たちは、それについて予測し、期待し、当てにする。私たちの未来に対する怖れを和らげるには、私たち自身がそれを予め知っていなければならないのだ。そして私たちはそれを、予め私たちが知るところのものとして迎えなければならない。それには、「未来への私たちのあらゆる行為は、私たちの現実において実現しうる可能性として、すでに見出されているものである」という前提において行為されるのでなければならない。未来において私たちは、そこにはっきりと「私たち自身の姿が見出されている」のでなければならない。未来において見出されている私たち自身の姿に、現在の私たちを一致させるために、私たちの現在におけるあらゆる行為はなされるものでなければならない。「絶え間なく訪れる未来」を、私たち自身によって絶やしてしまうことのなく、私たち自身の現在におけるあらゆる行為の結実として迎え入れるとき、「私たちの現実的な可能性の実現である、私たちの未来」は、私たち自身の現在における行為によって、私たち自身において一致するように、私たち自身の手によって築かれるものでなければならない。
そのようにして、人がそのそれぞれの生活の場面で、未来への期待と意欲を持ち、その実現に向けていろいろと計画を立て、それをその思い描いたように実現するべく、目的を定めて行動する。だが実際には、「そのように思っていたのとは違う結果」を、私たちの現実の行為が生み出してしまうことがある。しかし、「思っていた現実と違うから」と言って、「それは現実ではない」と言うことは、もちろんできない。
人が自らの行動・行為の結果を予め知ることができず、未来を当てにすることができないということを、アレントは『不可予言性』と呼び(※1)、そのような不可予言性に対する「救済」は、人間の「約束をし、その約束を守る能力」(※2)と、「未来を現在であるかのように扱う能力」(※3)を通じて可能となる、と言う。
『約束』とは、「一方的に守らなければならないものとして課せられている」のではなく、また、行為する者の行為を「一方的に拘束する」ものでもなく、あくまで約束を交わす者同士の「間で相互的に交わされるもの」として、そしてその相互性においてまさしく「相互的にその約束の実行を要求する」ものである。つまりそれはまさに「関係としてある」ものなのだ、と言える。その相互性において、『約束』は、アレントの言い方で「公的性格を帯びる」ものとなる。
同時に約束とは、そこで要求されている「実行されるべき行為」が、その約束に対して「行為者自身が、主体的であり自発的に行為するものであること」が要求される。彼の行為が、一方的な拘束であったり強制であったりするものではなく、あるいは「運命に流されているもの」でも「神の手に操られているもの」でもなく、彼自身が「敢えて自らそうする」ものであるということ、つまり「自らの意志・意欲に基づいて、自らそうするもの」であるということを、「自らの意志・意欲に基づいて交わされる約束」によって、人はむしろ「自ら主体的・自発的に拘束される」ことになる。
約束に基づいた相互的な行為は、互いの関係において成立することを、約束はその約束において「保証する」ところとなる。それは、その約束が互いの「間で交わされるもの」であることとして、すなわち「関係としてあるもの」であるものとして、ひいては「その関係においてのみ交わされるもの」として、つまり「その関係に限定されるべきもの」として成立している。その約束は、行為者と、彼と共に行為する者との「間で行為される行為によって生成する出来事についてのみ、交わされるべきもの」として、「その出来事に限定されている」ことをも、同時に約束されていることになる。要するに約束とはあくまで、「その行為と、それによって生成する出来事に関することに限定されているものであるべき」であり、その出来事は、「約束する者自体、あるいは行為する者自体に還元されるべきではない」ということ、つまりその人の行為によって生じた出来事を「その人そのもの」に還元するべきではないということ、人は、そこで約束されたこと以外については、その約束によって拘束されえないのだということも、その約束が交わされたときにおいて同時に約束として交わされている、ということである。
未来を予見することができない人間への救済として、「未来を現在であるかのように扱う」ことによって成立する『約束』とは、「現在を未来に持ち越す」ということでもあり、つまりその「約束において想定されている出来事」というのは、「いつでも・どこでも・誰にでも起こりうる、一般的な出来事」として考えられている、ということである。ゆえに『約束』は、「出来事の一般性に基づく限りにおいてのみ適用される」ことが同時に約束される。
約束が「出来事を一般的なものとして扱う能力」ということは、逆に「そのようにしか扱えない」ということでもある。だからその能力は、一般的なものにしか適用できない。そのような『約束』の、一般的な適用であるところの『法』とは、まさしく一般的な出来事=事件のみに適用されるものであり、また「出来事=事件を一般化する能力しか持たない」と言える。
法が一般的な適用の領域において成立しているのであれば、その適用の領域を超えないこと、かつそれを超えた場合には厳に斥けられるべきことも、その成立の条件において約束されている。しかし、「法の適用されている一般的な関係・行為・出来事だけで構成されている世界」がもしもあるのだとしたら、それは「世界そのものとしては不十分」だ、と言えるだろう。ゆえに法は、その自らの不十分さを認め、自らの能力を超えたところに自らを適用しないことを「約束する」ことで、はじめて自らの正当性を確保できるのだ、とも言える。逆に、その領域を超えて無際限に法を適用しようとするならば、その法はむしろ「不法」なのである。
法は、それ自体の要求よりも、法の規定することのそれ以上には誰にも要求されないということの方に、より強い意味がある。それはまた、法が自らの規定することのそれ以上を要求できないという、「拘束・強制能力の不十分さ、あるいは限界」に由来していることにおいて、その意味を持っているということである。ゆえに、いわゆる『法の支配』は、その支配性が「能力として限界を持つ」ということを明言することにおいて、自らの「世界に対する支配性」は、「その世界に対して不十分であり、限界を持つ」ということを、ここで同時に明らかにしている。ゆえにそれはまた、原理的に言ってあらゆる『支配性』とはそのように「限界を持って機能するものである」ということをも同時に告発するものであり、よって法は、「自らの力を限定する」ことにおいて、たとえば『人の支配』のその際限のなさを、その「支配力の限界性、あるいは不十分さ」を、明らかに指摘することにおいて抑止し、かつ排除することに、一つの役割を持つことになる。
また『権利』とは、法と同様に、その「規定された領域」を超えて要求されることが否定されていることにおいて成り立っているものである。言い換えると、「権利に基づいて構成された社会」は、「それ以上の権利を持たない社会」である。このことは、それ以上のものを要求し続けるような「欲望の際限のなさ」を抑止するものであり、かつ欲望とは本質的に、そのような「際限のないもの」であるということを暴露するものでもある。つまり権利とは、ある欲望の実現において成立すると言うよりも、「その他の欲望の断念」においてこそ成立するものだと言える。
〈つづく〉
◎引用・参照
(※1) アレント「人間の条件」第五章34
(※2) アレント「人間の条件」第五章33
(※3) アレント「人間の条件」第五章34
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