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脱学校的人間(新編集版)〈65〉

 だいたい同じように繰り返されている日々の中で、「ことさら特に見るべきものもない」というのは、「全ての者がだいたい同じことをする」という一元的な生活状況・環境において、全ての者にだいたい共通している日常の様子であろう。だからこそ、そのような日常の中において見出される「異常」は、「だいたい誰もが同じような人々」にとってはまさしく、またとない格好の見物にもなるわけである。
 「特に見るべきものもない」日常の日々において、少しでも異質に見えるような生活行動は、実際以上に肥大した印象をもって露出してきてしまう。それは異様なほど目立ち、誰が見ても明らかなほど目についてしまう。そしてそのような異常の露出というものは、その異常を引き起こした本人自身が思っている以上に、過度な意味を持ってしまうことになる。その過剰な意味が固定されたまま、その異常を引き起こした本人自身を丸ごと含んだ状態で、その異常は、ほとんど全ての者たちから好奇の視線を浴び続けることになる。

 「みんなと同じであること」に絶えず気を配り、周囲の誰かが「みんなと違っていないか?」と常に目を光らせているような社会を、セーレン・キルケゴールは「水平化した社会」と表現した(※1)。極限まで目立たず飛び出さず、どこまでも真っ平らな「何もない」世界。そのような世界の中では「何かがある」というだけで異様なほど目立ち、「それだけで異質である」というような意味を持ってしまう。
 たとえばもしも見渡す限りの麦畑の中で、ただ一本だけ飛び出た穂を見つけてしまったとしたら、それが「他の穂と同じ麦の穂」であったとしても、「その穂には何か異常があるのではないか?」と誰もが思ってしまうものだろう。「人間」もそれと同じなのだ。誰が誰とも区別のつかない、ひとかたまりになった人々の群れの中で、たとえそれが「どのような」者であろうとも、ともかくその誰かが「ただ一人で立っている」ということ自体が、すなわちその姿が「その人自身として特定されてしまうこと自体」が、どうしようもなく人の目につき、「ただそれだけで異常であるかのように見える」ものなのだ。しかし、「その人自身」は別に何か人目につくような、「特別な意味・理由を持っているから、そのように人目についている」というわけでは、実のところ全くないのである。ただ、一般に定められ認められた個性を超えて、「その人自身である」ということそれ自体が、彼自身が人目についてしまうことの意味・理由として成立してしまっている、「ただそれだけのこと」にすぎないのだ。その「ただそれだけのこと」が、この「水平な社会」では、あまりにも「異常なくらいに」飛び抜けて目立ってしまうのである。

 「何者でもない、だいたい同じような人々のかたまり」である社会において、「誰の目にもつかない無−意味さ」を、個々の人々の誰彼という例外なく、その日常の隅々に至るまで、生活全般にわたって求められているそのさなかにあって、ある特定の人が「自分自身である、という特定の意味」を持つこと自体がすでに、そのかたまりの中から目ざましく飛び出している。誰が誰とも見分けがつかないような人の群れの中で、「彼自身であること」を特定され、他者たち全てと見分けられてしまうそのこと自体が、すでにどうしようもなく人の目につく。いかに普段は全く目立つことのない、その名も知れぬような者であっても、ひとたび彼が彼自身であろうとした途端に、彼は「水平な社会」から垂直に突出し、ひとかたまりになった人々の先頭にただ一人きりで突っ立たされる。その立ち姿は誰が見ても異常と思えるほど、人の目につくことになってしまう。それがさらにエスカレートすれば、結果として「彼が彼自身であるという、ただそれだけのこと」で、それがすなわち「社会的な逸脱」だとさえ見なされてしまうような事態にまで至ってしまうことにもなる。人目につかないことを「みんなの正義」とする水平な社会においては、さらにその事態を受けて今度は、人目につくこと自体がすでに罪なのだとされ、その罪状に該当する者は直ちに、何らかの社会的な処分の対象にまでなってしまうところともなる。

 「全ての者がだいたい同じことをする」という、誰がしても誰が見ても同じような、一元的な生活行動様式の繰り返しとなる環境・状況すなわち「日常」の中において、「誰が見ても明らかに異常なこと・もの」を見つけ出し、それを「私たちの規範に従って適切に処理する」ということは、そのような「私たちの日常の生活環境・状況を維持するため」に何より大切で必要なことだと考えられている。
 だから人々は日常的に、そのような異常がどこかで起こりはしないかと目を光らせ、そのような異常を粛々と取り締まるべく、手ぐすねを引いて待ち望んでいる。それと同時に、逆に自分自身がそのような異常を引き起こすことがけっしてないよう、そして自分自身が周囲から晒しものになることがけっしてないよう、絶えず緊張して我が身辺を見回し気を配り続けることに、人々は日常から必死になっているわけである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 キルケゴール「現代の批判」


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