道玄坂をおりる/嫌な顔をされる 2
タバコ屋の前に置かれている灰皿に吸殻を捨てた。この先にも、道玄坂の途中に吸殻を入れられるところはあるけれど、人通りが多くなってくるから、いつもここで捨てていた。朝の神泉の仲通りは同じようにしている人が多くて、歩いている男の人の三人に一人くらいが歩きタバコをしていた。家の中で吸うよりも外で吸うほうが気持ちいいから、俺も朝はいつも部屋を出てから最初の一服をしていた。夜帰ってくるときも、部屋に戻ってから吸うよりいいと思って、この通りに入るとタバコに火をつけていた。今の会社は喫煙率が低く、俺が勤め出してから禁煙し始めた人も何人かいたりして、だんだんみんなタバコを吸わなくなっていくんだなと思ったりもしていた。けれど、この通りを歩いていると、なんだかんだタバコを吸っている人はまだまだたくさんいるのだなと思う。
いつだったか、会社の帰りに、タバコを吸いながらこの通りを歩いていたとき、若い白人の男が話しかけてきて、歩きタバコを注意されたことがあった。三十歳手前くらいで、日本で見かける白人の中でも、まぁまぁ顔の整った男だった。この辺りは外人のモデルが多く住んでいるらしく、通りを歩いていても、スーパーで買い物をしていても、八頭身とかそれ以上の白人の女の人をよく見かけた。その男もそういう関連の仕事でもしていたのかもしれない。
それほど遅くない、夜の八時とか九時くらいの時間だった。俺がタバコを吸いながら神泉の仲通りを歩いていると、誰かが後ろから近付いて来て、俺のすぐ斜め後ろくらいを並んで歩き出した。なんだろうと思いながら、そのまま歩いていると、そいつが俺の真横に並んできて、顔を覗き込んできた。そちらに顔を向けると、白人の男が俺をじっと見ていた。男は俺の顔をじっと見詰めた状態で固まっていて、俺がどうしたのかなと思って首をかしげると、男はカメラで俺を撮った。
すでにカメラを手に持って撮る準備をしていたのだろう。カメラが顔の高さに持ち上げられてすぐにシャッターが切られた。急に写真を撮られて驚いたけれど、なんなのだろうと思いながら、とりあえず黙って歩いていた。男はカメラをポケットにしまって、また俺をじっと見てきた。俺は「なに?」と聞いた。「ここは歩きタバコ禁止ですよ、知ってますか」と言われた。だからなんなのだろうと思っていると、男は「渋谷区は歩きタバコは禁止です」と言った。俺は、渋谷は条例なんだっけかと思いながら「はぁ、そうだっけ」と答えた。男はなんだか大げさな感じに「そうなんですよ」と言って、「ちょっといいですか」と俺を立ち止まらせた。面倒くさいのに引っかかったなと思った。男は怒っている感じの顔をしてこちらを見詰めていた。ませた子供が怒ったふりをしているような感じだなと思った。さぞかし怒っているつもりなんだろうなと思ったけれど、怒っているつもりだということしか伝わってこなかった。男が「いけないことだとわかってますか?」と言って、俺は「そうねぇ」と濁してから、「ちょっとごめんね」と言って、少し先の自販機のそばにある吸殻入れに吸殻を入れた。男はまた「悪いと思っていないんですか?」と言ってきて、俺は「あんまり思ってないかな」と答えた。男は大げさにため息をついてから、「名前を教えてください」と言ってメモ帳を出した。俺は自分の名前を言った。うまく聞き取れないようだったから、何度か言い直した。男はそれをメモに書き込んで「会社はどこですか」と言った。なんだこいつはと思って、「なに?」と答えた。「会社の名前を教えてください」と繰り返すから、好きにさせてあげようと思って、自分のいる会社名を言った。「もう一度言ってください」と言ったから、もう一度言った。男はメモに書き込もうとしながら、やはりうまく聞き取れなかったようで「名刺はありますか」と言った。俺は少し笑ってしまって、名刺入れを出して、男に名刺を渡した。男はしかめっ面で名刺を確認しながら、「電話しますよ」と言った。俺は呆れながら「いいよ」と答えた。「いいんですか?」と男が念を押してくるから、「うん。いいよ」と答えた。「あなたが禁止されているところでタバコを吸っていたと話します」と言うから、「どうぞ。そうしてくれればいいよ」と答えた。男は何か言おうとしてやめて、少し黙ってから、名刺とメモをポケットにしまった。俺は「もういい?」と聞いた。男はまだ渋い顔をしていたけれど、俺は「じゃあね」と言って、もう目の前まで来ていた自分のアパートに帰っていった。バカバカしい気持ちでいっぱいだった。
脅してくるなんてバカなやつだなと思った。脅すなら、暴力でもちらつかせればいいのにと思う。それならあまりに面倒臭くて言うことを聞く気にもなるかもしれない。いきなり写真を撮ってきて、神経質そうな感じでごちゃごちゃ言ってこられても、こいつはバカなんだなとしか思えない。俺はずっとバカだなという顔をしながら応対していたのだろうと思う。脅しなんか効くわけがないのだから、さっさと途中で切り上げてくれればよかったのにと思う。だんだんとぐだぐだになりながら、言っても意味のない相手に、一通りごちゃごちゃ言ってみて、それで満足したんだろうか。最後の方は、こちらに脅しが効かないことに、ずいぶん不満そうだったように思う。とはいえ、不満そうなポーズをとっているだけだったのかもしれない。俺はあからさまにバカにしていたのだし、バカにされて口惜しくはあったのだろう。
けれど、こちらとしてもいい迷惑だったのだ。写真を撮れば自分の言うことを聞くだろうとか、会社に電話すると言えば言うことを聞くだろうとか、おかしな勘違いをしたやつに寄ってこられるのは、どうしたってひどく不愉快なことなのだ。もしかすると、あの白人の男は、やってはいけないことをやっていたと俺が気付くきっかけになってあげようと、親切なことをやっているつもりだったのかもしれない。確かに、ただ注意してきただけだったのなら、俺も嫌な気持ちにはならなかっただろう。注意や意見をしたければ、それはその人が勝手にすればいいことだと思える。けれど、見ず知らずの他人に取引を持ち出して脅してくるというのでは、発想が強盗と同じだろう。殺されたくなければ金を出せ、というのと何も変わらない。もちろん、むしろその男としては、自分を正義の側に置いて、歩きタバコをやめなければ社会的制裁を加えると忠告しているようなつもりだったのだろう。けれど、歩きタバコが公衆衛生的によくないとか、仮に渋谷区で条例違反だったとしても、悪いことをしたからといってその人を脅してもいいということにはならないだろう。他人を一方的に罰するなんてことを、一個人としてやろうとしてしまえること自体が恐ろしいなと思う。
もちろん、そんなふうに取引を持ちかけて相手を脅しにかかるような人はたくさんいるのだろう。子供が言うことを聞かないときに、言うことを聞かないともうお菓子を買ってあげないよとか、そんなことを言うのも同じことなのだと思う。そんな言い方をしてしまうと、子供は表面上お菓子のために相手の言うことを聞きながら、この人は自分が今不満に思っているということは受け止めてくれないのだと、相手を信用しなくなっていくだけだろう。誰かに何かをやめて欲しいのなら、それをされるのが自分は嫌だからやめて欲しいと伝えればいいのだ。相手に自分の気持ちを伝えることを放棄して、ただ行動を変えてくれさえすればいいとでもいうように、交換条件で相手を従わせようとするなんて、そういう発想が浮かぶこと自体、ひどく不気味だなと思う。そして、そういう考え方の人は、ただ相手を従わせようということだけが目的で、相手の意見は求めていないから、相手が自分の意見を返しにくいように、過剰に感情的だったりするような、一方的な態度をとったりしがちなのだろう。あの男のわざとらしい感情表現にしても、そういうものだったのだと思う。
あれはいつの出来事だったのだろう。記憶にあるその男の格好からすると、秋の終わりくらいにも思えるし、春先だったのかもしれない。その男は、日本語も多少は話せるというくらいの感じだったし、目つきは日本人的にはなっていなかったように思う。もうすでに俺をターゲットに決めてからの顔しか見ていないけれど、神経質そうなやつだったなと思う。思い込みの中を生きている、他人を罰したがる、ろくでもないやつ。俺の軽蔑はあの白人の男に伝わったんだろうか。あれにしても、後味が悪い出来事だったなと思う。
(続き)
(全話リンク)