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道玄坂をおりる/嫌な顔をされる 16(終)

 朝はつまらないなと思う。みんなつまらなさそうだから、見ていてつまらない。外を歩いているには、景色を見ていたりして、気持ちも塞ぎきっていないから、まだ何かをいいなとかきれいだなとか感じたりできるけれど、地下に降りてしまうと、見ていて気分のいい景色はなくなってしまう。渋谷駅構内はいつまでたってもいろんなところが工事中のままで、工事が終わったところは、ぴかぴかとした下世話な感じにかわいいぶった不恰好な造形を晒している。ホームに近付くにつれて増えていく人の数。狭すぎるホームと、そこであふれかかっている人たち。それを交通整理するための多すぎる駅員と、それぞれの駅員の大きすぎる叫び声。毎日のように視界に入る、ベンチで崩れかかっているか、ベンチにもたれて地面に座り込んでいる、貧血か何かで青くなっている女の人。何日かに一度視界に入る、眼鏡をかけた地味な若い女の人が、タッパーを抱えながら背中を少し丸めておにぎりを無表情に小さく咀嚼している姿。階段があるせいで通路が狭くなっているところで、壁にもたれかかって携帯電話を見詰めている人たちの列。その列の向こうから歩いてくる、道を譲る気のない駅員。すれ違うために、俺が白い線の外側にはみ出るしかないときに、駅員が注意するかどうかを迷って、結局何も言わずに視線だけよこしてくるときの、その結局はどうでもよさそうな視線。元気があって何よりだと思えるのは中国人観光客の一団くらいで、その連中にしても、それなりに金持ちだからなのかもしれないし、朝の早くから電車で渋谷からなのか、渋谷までなのかを移動するようなツアーに参加しているような連中だからなのか、みんな多少にこやかそうにしていても、どうしたところであまり善良そうには見えない人が多く混じっている。そして、そんなホームの上の人々から目を逸らしても、看板ばかりが壁面に点々と続いていく。天井がどこまでも続いている。
 地下は好きではないなと思う。前の会社は四ツ谷と四谷三丁目の、四谷三丁目寄りにオフィスのビルがあったけれど、地下鉄に乗るのが億劫で、渋谷に引っ越した当初は山手線と総武線を使って通勤していた。窓の外には、とりあえず少しは空が見えていて、どこまでも先に続いている。それだけで少しはましだった。結局、あまりにも通勤にかかる労力に差があるから、しばらくして銀座線と丸の内線を使うようになったけれど、地下鉄のよいところなんて、災害の影響が少ないとか雨に濡れないとか、そういう利便性に関わるようなものだけで、乗っているうえでの気持ちとしては、いいところなんて何一つないように思う。
 半蔵門線の改札から、人がばらばらと出てくるのが見える。俺はその人たちと入れ違いに改札を通り抜けて、嫌な気持ちになりに六本木一丁目に向かうのだ。
 楽しみがないなと思う。何か少しでも楽しみがあればいいのにと思う。家を出て、タバコを吸って、猫がいるかどうかをチェックして、道玄坂の景色を見る。気分が乗れば、音楽を聞きながら歩いたりとか、そういうたいしたことのないもので気持ちよくなれるのに、ちょっとした楽しみすら会社では難しいのはどういうことなんだろうと思う。
 会社に着けば、見ていていいなと思う女の人が何人かいたりはする。けれど、そのうちの誰一人とも仕事上の関わりはなくて、ただ目の前を通り過ぎるのを少し見たりするだけだった。そしてあとはひたすら黙っているだけになる。睨まれているのを無視し続ける苦痛を自分の中に充満させ続けることしかできなくるのだ。
 前向きに考えるのなら、これから俺は昼飯を食いに六本木一丁目に行くのだと思うべきなのだろう。何が楽しくて会社に行くのかというのなら、昼飯を食いに職場に行っているとしかいいようがないのだ。そういう楽しみがあるだけ、最悪ではないということなのだろう。昼飯しか楽しみがないのに、わざわざ十時間とか十二時間拘束されているのはバカバカしいけれど、それは給料をもらうためだから仕方がない。けれど、給料は他の会社からだってもらえるのだ。さっさと辞めないとなと思う。

 改札の手前で、すれ違った男と目が合ったとき、また、小さく嫌な顔をされた。
 俺は空っぽな顔をしていたのだと思う。その男に何を感じていたわけでもなかったし、何も思っていなかった。そして、しらけた表情を作るわけでもないまま、しらけた無表情の中で、冷たい目をしていたのだろうと思う。その男は、俺の冷たい目と目を合わせて、嫌な顔をしたのかもしれない。けれど、冷たい目をしていて何がいけないというのだろう。そういう気分だからそうなっているだけなのだ。うれしくも楽しくもないのに、うれしいときの顔や楽しいときの顔なんてするわけがないし、疲れているからといって、疲れに任せて疲労に押しつぶされたような歪んだ顔もしたくない。そもそも、俺は見ていて冷たい気持ちになるような景色の中を歩いているのだ。
 すれ違う人と目が合って嫌な顔をされるたびに、気持ちが乱れる。もう四、五年くらいそういうことがたまにあるけれど、ちっとも嫌な顔をされることに慣れない。嫌な顔をされると嫌になる。悲しくてむなしくなる。



(終わり)



(全話リンク)



この作品よりあとに書いたものなので、こちらのほうが面白いです



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